ンタは……何をソンナに怖がるの……何処へ行くのイッタイ……おかアしな人ねえ……ホホホホホホホホ……」
 しかし部屋を出て行った青年が、応接間の重たい扉を、向側からバタンと大きな音を立てて閉めると、眉香子の笑い顔が、急にスイッチを切り換えたように冷笑に変化した。
「オホホホホホホ、ハハハハハハハ。お馬鹿さんねえ、アンタは……出て行ったってモウ駄目よ。今夜のうちにお陀仏よ。ホホホ。でも……お蔭で今夜は面白かったわ……」

 しかし新張家の内玄関を一歩出ると、青年の態度が急に、別人のように緊張した。
 厳《いか》めしい鉄門の鉄柵越しに門前の様子を見定めると、電光の様に小潜りを出た。鼬《いたち》のように一直線に門前の茅原の暗《やみ》に消え込んだ。それから新張家の外郭を包む煉瓦塀にヘバリついてグルリと半まわりすると、裏手の小山のコンモリした杉木立の中に辷《すべ》り込んだ。
 青年はこの辺の案内をよほど詳しく調べていたらしい。それから二十分ほどしてから選炭場裏の六十度を描く赤土の絶壁の上に来ると、その絶壁の褶《ひだ》の間の暗《くら》がりを、猿のように身軽に辷り降りた。それから炭坑のトロ道が作る黒い投影の中を一散に走って、直方駅構内の貨物車の間を影のようにスリ抜けて、ほど近い日吉町の日吉旅館の裏手に来た青年は、素早く前後を見まわして、警戒のないのを見定めてから蔦蔓《つたかずら》の一パイに茂り絡んだ煉瓦塀をヒラリと飛越えた。やはり案内を知っているらしい裏庭伝いに、湯殿の出入口からコッソリと忍び込むと、直ぐに上衣を脱いで、まだ落してない垢《あか》臭い湯の中に頭と顔を突っ込んでジャブジャブと洗い上げ、水槽の水面に口を近づけてさも美味そうにしてゴクゴクと飲み終ると、鏡台の前のポマードを手探りにコテコテ頭を塗りつけて在り合う櫛《くし》で念入りに二つに分けた。それから大急ぎで洋服を脱いで、衣桁《いこう》に引っかけてあった浴衣《ゆかた》に手早く袖を通し、泥だらけの洋服とワイシャツとズボンを丸めて、番号札のついた脱衣戸棚と天井裏との間に出来ている暗がりに突込んだ。それから湯殿のタイルの上に落ちていた赤い古タオルを拾い上げてシッカリと絞り切ったのを片手に提げて、普通のお客のように落ちつきはらいながら廊下に出ると、ちょうど向うから来かかった新米らしい若い女中にニッコリして見せた。
「君……僕の部屋はドコだったけね」
 女は両腕に抱えた十余枚の洗い立ての浴衣の向うから愛想よく一礼した。
「ホホ。何番さんでいらっしゃいますか」
「それが何番だったか……あんまり家が広いもんだから降りて来た階段を忘れちゃったんだ。八時五十四分の汽車で着いた四人連れの部屋だがね」
「ホホ。あの東京のお客様でしょ。ツイ今さっき……十時頃お出でになった。お一人はヘルメットを召した……」
「ウン。それだそれだ……」
「あ……それなら向うの突当りの梯子段《はしごだん》をお上りになると、直ぐ左側のお部屋で御座います。十二番と十三番のお二間になっております」
「……ありがとう……」
 教えられた通りに青年は二階へ上った。部屋の番号をチョット見上げながら静かに障子を開いた。
「アレ。寝てやがる。暢気《のんき》な奴等だ」
 電灯を消した八畳と十畳の二間をブッ通して寝床が五つ、一列に取ってある。その中央の一つだけがまだ寝具をたたんだままで、アトは四人の人間が皆、頭から布団を引冠ってスースーと眠っている様子である。廊下から映して来る薄明りに、向うの枕元の火鉢から立ち昇る吸殻《すいがら》の烟《けむり》が見える。
 八畳の間の違棚の下にならんでいる四人分の洋服と、違棚の上に二つ三つ並んだ鞄と、その右手の壁に架け並べてある四ツの帽子を見まわした青年は、ヤッと安心したらしくホットタメ息をした。何の気もなく中央の自分の寝床の上に近づいて枕の前にドカリと音を立てて坐った。一時に疲れが出たらしく、両手をベッタリとシーツの上に突くと、声をひそめて力強く呼んだ。
「オイ。皆起きろ。ズキがまわったぞ……」
 左右の寝床の中の寝息がピタリと止まったようであった。同時にクスクスと笑うような声が何処からか聞こえてきた。
 その声を聞くと同時に青年はハッと膝を立てて身構えた。稲妻のように飛び上って頭の上の電灯のスイッチをひねった。今一度左右の寝姿を見まわした。
 トタンに……それをキッカケにしたように四つの夜具が一斉に跳ね返された。……アッ……という間もなく立ち上りかけた青年の上に八ツの逞《たくま》しい手が折重なって、グルグル巻に縛り上げられた……と思う間もなく夜具の上にコロコロと蹴返された。
「ウーム」
 縛られたまま敷布団の上に起き直った青年は、ポマードだらけの毛髪を振り乱したまま真青になって自分の周囲を見まわした。自分を見下し
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