ラ何でも僕に限って駄目ですよ。世界中のありとあらゆる夢よりも、僕の心に巣喰っている虚無の方がズット深くて強いんですからね……明日になったらキット醒めちゃうんですから……」
「理屈を言ったって駄目よ。明日になって見なくちゃわからないじゃないの。醒めようたって醒め切れない強い印象を貴方の脳髄の歯車の間に残して上げるわ……あたしの力で英、伊戦争を喰い止めてお眼にかけるわ」
「アハハハ。これは愉快だ。一つ乾杯しましょう」
乾杯がすむと眉香子は立ち上って、正面中央のマントルピースの下のスイッチをひねって五つのシャンデリアの光を一時に消してしまった。それから部屋の隅の紐を引くと、部屋の三方の眼界を遮っていたゴブラン織の窓掛がスルスルと開《あ》いた。二人の腰かけている長椅子の真正面の左手の窓硝子越しに遙かに見える新張炭坑の選炭場の弧光灯がタッタ一つと、その下でメラメラと燃え燻《くすぶ》っている紅黒いガラ焼の焔が、ロシヤ絨氈のように重なり合って見える。アトは一面に星一つない寂莫たる暗黒の山々らしい。
部屋の中がシインとなってしまった。時々軽い衣擦《きぬず》れの音が聞こえるほかは何の物音もない。窓の外の暗黒と一続きのままシンシンと夜半に近づいて行った。
……突然……部屋の隅の思いがけない方向で……コロロン、コロロン、コロリン……トロロロンンン……という優雅なオルゴールのような音がした。それは十時半を報ずる黄金製の置時計の音であった。
すると、ちょうどそれを合図のように、部屋の中へ、眼も眩《くら》むほど明るい光線がパッとさし込んで来たように思われたので、今まであるかないかに呼吸《いき》を凝らしていた二人は、思わず小さな叫び声をあげてパッと左右に飛び退いた。二人とも申し合わせたように頭の上のシャンデリアを仰いだが、シャンデリアは依然として消えたままで、ただ数限りもない硝子の切子玉が、遠い遠い窓の外をキラキラと反射しているキリであった。
二人はまたもヒッシと抱きあったまま、屹《きっ》となって窓の外を見た。
見よ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
窓の外のポプラ並木の間から、遙か向うの暗黒の中に重なり合っていた選炭場、積込場、廃物の大クレーン、機械場、ポンプ場、捲上場《まきど》、トロ置場、ボタ捨場、燃滓《かす》捨場に至るまで、新張炭坑構内に何千何百となく並んでいた電灯と弧光灯が、一時にイルミネーションのように輝き出して、広い涯てしもない構内を、羽虫の羽影までも見逃がさぬように、隅から隅まで煌々と照し出しているではないか。その光の群れがサーチライトのように一団の大光明となって二人の真正面の窓から流れ込んで来て、金ピカずくめの応接間の内部を白昼のようにアリアリと照し出しているではないか。
青年は今一度眼をこすった。顔面をこわばらせたままその光の大集団を凝視した。
それは一本の木も草もない、荒涼たる硬炭焼滓《ボタかす》だらけの起伏と、煙墨《スス》だらけの煉瓦や、石塊や、廃材等々々が作る、陰惨な投影の大集団であった。人間の影一つ、犬コロ一匹通っていない真の寂莫無人の厳粛な地獄絵図としか見えなかった。その片隅に、もう消えかかったガラ焼の焔と煙が、ヌラヌラメラメラと古綿のように、または腐った花びらのように捩《よじ》れ合っているのであった。
青年は眉香子の中でガタガタと震え出した。恐怖の眼をマン丸く、真白くなるほど見開いて、窓の外の光明を凝視したまま、顎をガタガタと鳴らし始めた。わななく指先で眉香子の腕を押し除けて、棒のようにスッポリと立ち上った。
それはさながらに地獄に堕ちた死人の形相であった。髪が乱れ、ズボン釣がはずれ、ネクタイがブラ下ったまま、白い唇をガックリと開き、舌をダラリと垂らし、膝頭をワナワナと戦《おのの》かせながら、夢遊病者のように両手を伸ばしてヒョロヒョロと部屋を出て行こうとした。唇を噛んだまま見送っていた眉香子が、長襦袢の裾を掻き合わせながら呼び止めた。
「アラ。あんた、ダシヌケにどうしたの……」
「…………」
「恐いの……」
「…………」
「マア、何がソンナに怖いの……まあ落ちついてここにいらっしゃいよ。何も怖がることないじゃないの……」
「…………」
「アレはね……あの電灯《あかり》はね。何か事故が起った時に事務所の宿直がアンナことするのよ。大したことじゃないのよ、チットモ……」
「…………」
青年は一言も返事をしなかった。青鬼に呼び止められた亡者のような悲し気な顔でチラリと、恐ろしそうに眉香子の顔を振り返っただけで……それでもイクラか落ちついたらしく、長椅子の上に引っかけた上衣を横筋違いに引被りながら、ヨロヨロと応接間を出て行った。眉香子も声ばかりで追っかけて、椅子から立ち上ろうともしなかった。
「まあ、変な人ねえ、ア
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