ホホホホホ……」
「うむ。ほかには何とも、神林先生は云うて行かなかったかね」
 マユミは美しい眼を、すこし上に向けて考えていたが、やがて大きく一つ点頭《うなず》いた。
「アイ。云うて行きなさいました。アノ奥座敷へはドンナ事があっても、行く事はならんと云うて行きなさいました」
「それでマユミさんは奥座敷へ行かなかったのかね」
「アイ。まだ二人とも寝ていんなさいます」
「ウム。アンタは昨夜《ゆうべ》、良う睡ったかね」
「アイ。一番先に寝てしまいました。ホホホ……」
「ハハハ。そうかそうか。よしよし……」
 台所に這入りかけていた草川巡査は、そういうマユミの無邪気な笑顔を見ているうちにフッと気が変った。何故ともなくスルリと身を引いて、タッタ一人で家の周囲をグルリと一廻《ひとめぐ》り巡回してみたが、それはやはり職務のために緊張し易い警官特有の第六感の作用であったかも知れない。特に地面の上の足跡や、雨戸の合わせ工合、木立の間の下草の乱れなぞを、極めて注意深く見てまわったものであったが、何一つコレはと気付くようなところが無かった。
 しかしその中《うち》に家《うち》の外側を七分通り巡《まわ》って、ちょうど台所の裏手に当っている背戸《せど》の井戸|端《ばた》まで来ると、草川巡査はピタリと足を佇《と》めた。佩刀《サアベル》をシッカリと握ったまま、その井戸端の混凝土《タタキ》の向側に置いてある一個の砥石《といし》に眼を付けた。
 それはマン丸く茂った山梔木《くちなし》の根方の、ちょっと人眼に附きにくい処に、極めて自然な位置に投出されている相当大きな天草砥石であった。一面に咲揃うた白い山梔木の花が、そこいら中に甘ったるい芳香を漂わしていたが、その灰色の砥石の周囲に、雨の力で跳ねかかっている地面から一続きの泥が、何か強い力で打たれたようにボロボロと剥落しているばかりでなく、その砥石の全体が、一分か五厘かわからないが一方にズレ寄っている形跡が、ハッキリと土の上に残っていた。
 ……これは何か重たい刃物か何かの柄《え》を、抜けないように嵌込《すげ》た証拠らしいぞ……そう思い思い草川巡査は、自分が犯人であるかのように青褪めた、緊張した表情で、そこいらを見まわした。台所で一知が茶漬を掻込《かっこ》んでいるらしい物音に耳を澄ますと、直ぐに跼《しゃが》んで、片手で砥石を持上げてみた。砥石の下には頭をタタキ潰された蚯蚓《みみず》が一匹、半死半生に変色したまま静かに動いていた。草川巡査は、その蚯蚓を凝視しながら、砥石をソッと元の通りに置いた。
 そこへ飯を喰い終った一知が、帯を締め締め、草履《ぞうり》を穿《は》いて出て来たので、草川巡査は素知らぬ顔をして台所の入口へ引返して来た。
「殺した奴はどこから這入って来たんか」
「ここから這入って来たものと思います」
 一知は、入口の敷居を指した。学問があるだけに言葉附がハッキリしていた。気分もモウすっかり落付いているらしく、平生《いつも》の通りに潤んだ、悲し気な瞳《め》を瞬《まばた》いていた。
「この引戸が半分、開放《あけはな》しになっておりました」
 草川巡査は一知青年と二人で暗い台所に這入った。継ぎ嵌《は》めだらけの引戸の締りを内側から検《あらた》めてみた。
「成る程、ここの帰りはこの掛金を一つ掛けただけだな」
「ハイ。その掛金の穴へ、あの竈《へっつい》の長い鉄火箸《ひばし》を一本刺しておくだけです」
「昨夜《ゆんべ》も刺しておいたのか」
「ハイ。シッカリと刺しておいたつもりでしたが、今朝《けさ》見ますとその鉄火箸《ひばし》は、この敷居の蔭に落ちておりました」
 その板戸の継ぎ嵌めだらけの板片《いたぎれ》を一つ一つに検めていた草川巡査は、
「よし。昨夜《ゆうべ》の通りに今一度、内側から締めてみい」
「ハイ……」
 一知が内側から戸を閉めて、掛金を掛けて、火箸をゴクゴクと挿込む音がした。すると草川巡査は、その継嵌《つぎはめ》の板片の中の一枚を外から何の苦もなくパックリと引離して、そこから片手を突込んで鉄火箸《ひばし》を引き抜いて、掛金を外《はず》した。その板片と火箸を両手に持ったまま引戸を静かに押開いて、ノッソリと土間へ這入って来ると、その土間の真中に突立っている一知の真青な顔を無言のままニコニコと見上げ見下した。
 一知の額には生汗がジットリと浮出していた。西洋の女のように白い唇をわななかして、今にも気絶しそうに眼をパチパチさせた。それを見ると草川巡査の微笑が一層深くなった。
「馬鹿だな。……この板を打付けた釘の周囲《まわり》が、スッかり腐っているじゃないか。これがわからなかったのか……今まで」
 一知は寝巻の袖で汗を押拭い押拭いペコペコと頭を下げた。
「……すみません……すみません……」
 草川巡査は手に持った板片の釘痕《くぎあと》を合わせて、スッポリと元の板戸の穴へ嵌込《はめこ》みながら、なおも微笑を深くした。
「馬鹿だよお前は……俺に謝罪《あやま》っても何もならんじゃないか。ええ。一軒の家《うち》の主人《あるじ》となったら……ことにコンナ一軒家の中で、年|老《と》った両親や、沢山のお金の運命を受持っている若い人間は、モウすこし戸締りや何かに気を付けんとイカンじゃないか。お蔭でコンナ間違いが出来たじゃないか……ええ?……」
 一《ひ》と縮みになった一知は、一生懸命に気を取直そうとしているらしく、無言のまま何度も何度も襟元をつくろい直した。
「足跡も何も無かったんか。そこいらには……」
「……ハ……ハイ。ありま……せんでした。山の下から……この踏石を踏んで来たもの……かも知れません」
 一知は先に立って表に出た。国道から曲り込んで、深良屋敷へ上って来る赤土道に、一尺置ぐらいに敷並べてある四角い花崗岩《みかげいし》の平石《ひらいし》を、わななく手で指した。草川巡査はうなずいた。腰を屈《かが》めて、その敷石の二つ三つを前後左右から透してみた。
「足跡も何も無い……ところでお前達は昨夜《ゆうべ》ドコに寝とったんか」
「この台所に寝ておりました」
「何も気付かなかったんか……それでも……」
 何を思い出したのか一知が、突然に真赤になって自分の影法師を凝視した。その赤い横頬と、青い襟筋が朝日に照されて、女のように媚《なま》めかしかった。
「マユミさんと一緒に寝とったんか」
 一知は首筋まで真赤になった。井戸端で水を汲んでいるマユミの背後《うしろ》姿をチラリと見た。
「いいえ。彼女《あいつ》は毎晩、両親の吩付《いいつけ》で直ぐ向うの中《なか》の間《ま》に寝る事になっておりますので……」
「ホントウか。大事な事を聞きよるのだ」
「ホントウで御座います。一緒に寝た事は……今までに……一度も……」
 そう云う中《うち》に一知は興奮したらしく早口になりかけたが、忽ちサッと青くなって口籠った。云うのじゃなかった……といった風に唇をギュッと噛んで、忙しく眼瞬《まばた》きをした。その顔を草川巡査は穴の明く程凝視したので、一知はイヨイヨ青くなって頸低《うなだ》れた。
「フウム。妙な事を云うのう……マッタクか……それは……」
 一知は怨《うら》めしそうな、悲痛な顔を上げて草川巡査の顔を見たが、その瞳《め》には一パイに涙が溜っていた。
「ハイ……しかし……それは……今度の事と……何の関係も無い事です」
「うむうむ。そうかそうか。それでラジオの音に紛れてマユミさんと一緒に寝よったんか。ハハハ」
 一知は頸低れたまま涙をポトポトと土間へ落した。微《かす》かにうなずいた。
「アハハハ。イヤ。そんな事はドウでも良《え》え。お前達が寝《ね》よる位置がわかれば良《え》えのじゃが……ところで、それにしても怪訝《おか》しいのう。二人とも犯人の通り筋に寝ておったのに、二人とも気付かなかったんか」
 一知が深いタメ息をしいしい顔を上げた。
「ハイ。私が気付きませんければ……彼女《あいつ》は死人と同然で……寝ると直ぐにグウグウ……」
 と云う中《うち》に又、赤い顔になって頸低れた。
「フム。毎晩、何時頃に寝るのかお前達は……」
「両親達はラジオを聴いてから一時間ばかりで寝附きますから、私たちが寝付くのはドウしても十二時過になっておりました。もっともこの頃は九時か十時ぐらいに寝ているようです。ラジオを止めましたから……」
「何故ラジオを止めたのかね」
「養母《おっか》さんが嫌いですから……」
 と云う中《うち》に一知は又も無念そうに唇を噛んだ。
「ふうむ。惨酷《ひど》いお養母《っか》さんじゃのう。起きるのは何時頃かね」
「大抵|今朝《けさ》ぐらいに起きます」
「夜業《よなべ》はせぬのか……藁《わら》細工なぞ……」
「致しません。時々小作米とか小遣の帳面を枕元の一|燭《しょく》の電燈で調べる位のことで、直ぐに寝てしまいます」
「老人《としより》というものはナカナカ寝付かれぬものというが、やっぱりソンナに早く寝てしまうのか……」
「さあ。私はよく存じませぬが……疲れて寝てしまいますので……」
 その時に井戸端で二人の問答を聞いていたマユミが、草川巡査の顔を振返った。何が可笑しいのか突然にゲラゲラと笑ったので、草川巡査は又もゾッとさせられた。

 草川巡査は妙な顔をしたまま靴を脱いで、台所の板の間に上った。以前の母家《おもや》から持って来たものであろう。家に不似合な大きな戸棚の並んでいる間から、中《なか》の間《ま》に通う三|尺間《じゃくま》を仕切っている重たい杉の開戸《ひらきど》を、軍隊手袋《ぐんて》を嵌《は》めた両手で念入りに検査した。それは真鍮製のかなり頑固な洋式の把手《とって》で、鍵穴の附いた分厚い真鍮板が裏表からガッチリと止めてある。それが、やはりこの家《うち》に不似合なものの一つに見えた。
「この把手はお前が取付けたんか」
「いいえ。養母《おっか》さんが取付けたのだそうです。一軒家だから用心に用心をしておくのだと云って、養母《おっか》さんが自分で町から買うて来て、隣村の大工さんに附けてもろうたのだそうです」
「そうするとこの家《うち》に引移った当時の事だな」
「よく知りませんがヨッポド前だそうです」
「フム。毎晩この鍵を掛けて寝るのか」
「ハイ。私が寝ると、養母《おっか》さんが掛けに来ます」
「そうすると鍵は養母《おっか》さんが持って、寝ている訳じゃのう」
「ハイ……そうらしう御座います」
「うむ。惨酷《ひど》い事をするのう」
 そう云って草川巡査は、うなだれている一知の顔を見たが、暗いので顔色はよくわからなかったけれども、モウ肩を震わして泣いているらしかった。寝巻浴衣の袖で眼を拭い拭い潤んだ声で云った。
「……あきらめて……おります……」
 草川巡査は、そのまま暫く考え込んでいたが、やがて軽いタメ息をしてうなずいた。
「ふうむ。成る程のう……しかしこれ位の鍵を一つ開ける位、窃盗常習犯にとっては何でもないじゃろう」
 そう云って、今一度タメ息をしいしい一知青年をかえりみた。
「……一緒に来てみい。奥座敷へ……」

 閉め切った古い雨戸の隙間と、夥しい節穴から流れ込む朝の光りに薄明るくなっている奥座敷に来てみると、成る程無残な状態《ありさま》であった。滅多にコンナ事に出会わない村医の神林先生が周章《あわて》て逃げ出して行ったのも、無理がなかった。
 古ぼけた蚊帳《かや》の中で、別々の夜具に寝ていた老夫婦は、殆んど同時に声も立て得ぬ間に絶息したものらしい。父親の牛九郎の方は仰臥《あおむ》けしたまま、禿上った前額部の眉の上を横筋違《よこすじか》いに耳の近くまでザックリと割られて、鶏《にわとり》の内臓みたような脳漿《のうみそ》がハミ出している。また姑のオナリ婆さんは俯伏《うつぶ》せになって、枕を抱えて寝ていたらしく、後頭部を縦に割付けられていたが、これは髪毛《かみのけ》があるので血が真黒に固まり付いている上に、二人の枕元の畳と蒲団の敷合わせが、血餅《けっぺい》でつながり合って、小さな堤防のように盛上っていた。いずれも極めて鋭利な重たい刃物で、アッと云う間も
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