ない唯|一撃《ひとう》ちに片付けられたものと見えた。蚊帳には牛九郎老人の枕元に血飛沫《ちしぶき》がかかっているだけで、ほかに何の異状も認められないところを見ると、二人の寝息を窺《うかが》った犯人は、大胆にも電燈を灯《つ》けるか何かして蚊帳の中に忍び入って、二人の中間に跼《しゃが》むか片膝を突くかしたまま、右と左に一気に兇行を遂げたものらしい。何にしても余程の残忍な、同時に大胆極まる遣口《やりくち》で、その時の光景を想像するさえ恐ろしい位であった。
草川巡査は持って来た懐中電燈で、部屋の中を残る隈なく検査したが、何一つ手掛になりそうなものは発見出来なかった。ただ老夫婦の枕元に古い、大きな紺絣《こんがすり》の財布が一個落ちていたのを取上げてみると、中味は麻糸に繋いだ大小十二三の鍵と、数十枚の証文ばかりであった。草川巡査はその財布をソッと元の処へ置きながら指《ゆびさ》した。
「これが盗まれた金の這入《はい》っていた袋だな」
「……そう……です……」
と云ううちに一知は今更、おそろしげに身を震わした。
「現金はイクラ位、這入っていたのかね」
「明日《あした》……いいえ、今日です。きょう信用組合へ入れに行く金が四十二円十七銭入っていた筈です。麦を売って肥料を買った残りです」
「お前はその現金を見たんか」
「いいえ。私はこの家《うち》へ来てから一度も現金を見た事はありません。私が附けた田畑の収穫の帳面尻をハジキ上げて、イクライクラ残っていると、台所から呶鳴《どな》りますと、養母《おっか》さんが寝床の中で銭を数えてから、ヨシヨシと云います。それが、帳尻の合っております証拠で……いつもの事です」
「そうかそうか。成る程……」
その時に一知の背後《うしろ》の中《なか》の間《ま》でマユミがオロオロ泣出している声が聞えた。両親の不幸がやっとわかったらしい。
その時に又、遥か下の国道から、自動車のサイレンが聞えて来たので、草川巡査は慌てて靴を穿いて表に出た。花崗岩《みかげいし》の敷石を飛び飛び赤土道を降りて、到着した判検事一行の七名ばかりを出迎えた。
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後篇
太陽はいつの間にか高く昇って、その烈々たる光焔の中に大地を四十五度以上の角度から引き包んでいた。その眼の眩《くら》むような大光熱は、山々の青葉を渡る朝風をピッタリと窒息させ、田の中に浮く数万の蛙《かわず》の鼻の頭を一つ一つに乾燥させ、地隙《ちげき》を這い出る数億の蟻《あり》の行列の一匹一匹に青空一面の光りを焦点作らせつつジリジリと真夏の白昼《まひる》の憂鬱を高潮させて行った。
この夏限りに死ぬというキチガイじみた蝉《せみ》の声々が、あっちの山々からこっちの谷々へと、真夏の雲の下らしい無味乾燥なオーケストラを荒れまわらせ、溢れ波打たせて、極端な生命の狂噪と、極端な死の静寂との一致を、亀裂だらけの大地一面に沁み込ませて行くのであった。
その小高い丘の木立の中に、森閑《しんかん》と雨戸を鎖《とざ》した兇行の家……深良《ふから》屋敷を離れた草川巡査は、もうグッタリと疲れながら、町から到着した判検事の一行を出迎えるべく、佩剣《はいけん》の柄《つか》を押え押え国道の方へ走り降りて行った。
本署からは剛腹で有名な巨漢《おおおとこ》の司法主任|馬酔《あせび》警部補と、貧相な戸山警察医のほかに、刑事が二名ばかり来ていた。検事の名前は鶴木《つるき》といって五十恰好の温厚そうな童顔|禿頭《とくとう》の紳士、予審判事は綿貫《わたぬき》という眼の鋭い、痩せた長身の四十男で、一見したところ、役柄が入れ違っているかのような奇妙な対照を作っていた。そのアトから腎臓病で腫《むく》んだ左右の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に梅干を貼った一知の父親の乙束《おとづか》区長が、長い頬髯《ほおひげ》を生した村医の神林先生や二三人の農夫と一緒に大慌てに慌てて走り上って来たが、物々しい一行の姿にスッカリ魘《おび》えてしまったらしく、一人も家の中に這入《はい》ろうとする者は無かった。今更の事のようにメソメソ泣きながら出迎えた一知夫婦と一緒に、一言も口を利かないまま、井戸端の混凝土《タタキ》の上に並んで突立って、検事や、予審判事や、警官連の行動をオドオドと見守ってばかりいた。
一行の取調は極めて簡単であった。
一行は既に区長の処へ立寄るか何かして色々の話を聞いて来ているらしく、馬酔司法主任が途中で一知をチョット物蔭へ呼んで、何かしら二三質問をしただけで、草川巡査の報告なぞは検事の耳に入る迄もなく、例によって例の如き司法主任の独断の前に一蹴《いっしゅう》され、冷笑されてしまったらしい。
疑いもない強盗殺人で、新夫婦が熟睡して気付かぬ間に演ぜられた兇行に相違ない。そんな例は今までにも随分多い事が経験上わかっている。むろん高飛をする前科者か何かが旅費に窮するか何かしての所業《しわざ》であろう。淋《さび》しい一軒家で、相当の資産家である事は人の噂でもわかるし、毎晩夕方に点《とも》しているという五十|燭《しょく》の電燈も、国道を通りかかった者の注意を相当に惹《ひ》く筈である。足跡の無いのは敷石ばかりを踏んで出入したせいに相違ない……という事になったらしい。泣きの涙でいる新夫婦が、司法主任や刑事たちからシキリに慰められながら、何度も何度もお辞儀をするのにつれて、父親の区長や村民たちまでもがペコペコと頭を下げ初めた。事実、世にも美しい若い夫婦が、手を取合って泣いている姿は一同の同情を惹くのに充分であった。
草川巡査が区長と連立って、大急ぎで深良屋敷から降りて行くと、その背後を見送るようにして検事、判事、司法主任の三人が門口を出て行った。そうして昔の母屋を取払った遺跡《あと》が広い麦打場になっている下の段の肥料|小舎《ごや》の前まで来ると、三人が向い合って立停って、小声で打合せを始めた。肥料小舎の背後を豊富な谷川の水が音を立てて流れているので、三人の声は三人以外の誰の耳にも這入らなかった。
「捜査本部はどこにするかね」
「駐在所でいいでしょう。電話がありますから。刑事を一人残しておいて、必要に応じて出張する事にしたいと思います。自動車で約一時間ぐらいで来られますから……」
「うむ。それがいいでしょう。実をいうと例の疑獄の方で儂《わし》も忙しくて、これにかかり切る訳にも行かんでのう……ところでアタリは附きましたかな……」
「色々想像が出来ますねえ。犯人は区長と、一知と、ルンペンと、前科者と……」
「ハハア。しかし今のところどれも考えられんじゃないですか、この場合……第一区長は見たところ相当な好人物に見えるじゃないですか。村の者のコソコソ話によると、区長は村のために自分一人が犠牲になって死物狂いに努力しおる名区長じゃというし、息子の一知も区長が或る計画の下に養子に遣ったものでは決してない。先方《こちら》からの望みであったというし、目下区長が全責任を負うて心配している信用組合の破綻を救うために、村民の決議で村有の山林原野を抵当にした、相当有利な条件の借金話が、区長と死んだ深良老人との間に都合よく進行しているという話じゃから、その裏の裏の魂胆でも無い限りは、区長へ嫌疑をかけるのは無意味じゃないかと思うです。深良爺さんが死ぬと区長は大きな損をする訳ですからナ」
「私は最初、一知に疑いをかけておりました。外から這入った形跡が全然見当らないのですからね。草川巡査も、只今のお話を知らなかったらしく、私と同意見で、一知に疑いをかけているらしい口吻《くちぶり》でしたが、しかし、私が最前ちょっと一知を物蔭に呼んで、心当りは無いかと尋ねてみますと、一知はモウ、そんな意味で草川巡査に疑いをかけられている事をウスウス感付いているらしいのです。眼に涙を一パイ溜めながら……私はまだこの家の籍に這入ってはおりませんが、仮りにも義理の両親を殺して、実父の財政が間違いなく救われる事になりますならば、喜んでこの罪を引受けましょう……とキッパリ申しておりました」
「フーム、田舎者としては立派すぎる返事ですなあ。すこし頭が良過ぎるようじゃが……」
「あの青年はこの村でも有数のインテリだそうです」
「そうらしいですな。殊にあの養子はこの村でも一番の堅造《かたぞう》という話ですな」
「草川巡査もそう云うておりました。あの別嬪《べっぴん》の嬶《かかあ》も好人物過ぎる位、好人物という話です」
「ウム。あの若い夫婦は大丈夫じゃろう。実父の区長のためになる事でなければ、そう急《せ》いて老夫婦を殺す必要も無い筈じゃから……しかし通りかかりのルンペンにしては遣り口が鮮やか過ぎるようじゃなあ」
「……今度の兇行の動機は怨恨《えんこん》関係じゃないでしょうか。金品《かね》を奪ったのは一種の胡麻化手段《カモフラージ》じゃないですかな」
「……というと……」
「マユミの縁組問題です……ずいぶん美人のようですからね」
「それも考えられるな。今の一知という青年と同年輩で、マユミに縁組を申込んで、老人夫婦に断られた者は居らんかな」
「十分に調べさせてみましょう」
「何にしても問題は兇器だ。アッ……草川君が帰って来た。また恐ろしく大勢連れて来たな。ハハハ……中々気が利いている」
「ナアニ。この村は青年が一致しているのでしょう」
青年団の兇器捜索は間もなく開始された。中にも草川巡査の指揮振りは実に手に入《い》ったもので、鶴木検事は一々感心しながら見物していた。青年連中の草川巡査に対する尊敬ぶりは、ちょうど小学校の生徒が、受持の教師に対する通りで、骨身を惜《おし》まず、夢中になって活躍するのであった。日盛りの蝉の声々が大海原の暴風を思わせる村の四方の山々を通抜ける幾筋もの小径を基線にして、次第次第に捜索の範囲が拡大されて行った。青年ばかりでなく村の大人たちまでも、この前代未聞の惨劇を描き出した未知の兇器に対する、たまらない好奇心に駈られて、強烈な真夏の光線を交錯させている草や、木や、石の投影に胸を躍らせ、呼吸を魘《おび》えさせながら、そうして如何にも大事件らしく呼び交す感傷的な叫び声の中に、色々の鳥や、虫の影を飛立たせながら、眼も眩むほどイキレ立つ大地の上を汗にまみれて匐《は》いまわった。
しかし日暮方まで何等の得るところも無かった。
ヘトヘトに疲れた草川巡査が、青年達を国道の上に呼集めた時には、判検事の一行はモウ引上げていた。二人の被害者の屍体《したい》も、蒲団に包んだ上から荒菰《あらごも》で巻いて、町から呼んだ自動車に載せて、解剖のため、大学へ運び去られたアトであった。
兇器が発見されないために、犯人を検挙する手がかりが全く無い事になった。
近まわりの村々を刑事がまわって、行動の疑わしい者や、変った出来事を一々調べ上げたが、元来、朴実《ぼくじつ》な人間たちと、平和な村政で固まっている村々には、二三羽の鶏《にわとり》の紛失や、一尺か二尺の地境《ちざかい》の喧嘩が問題になっている位のことで、前科者らしい者は勿論、素行の疑わしい者すら居なかった。それやこれやで、八月の末になると、もう事件が迷宮に入りかけて来た。
……やはり久しくこの辺を通らなかった兇悪な前科者が、通りがかりに遣付《やっつ》けた仕事だろう……。
といったような噂が一時、村の人々の間で有力になった。それにつれて滑稽にも村中の戸締りが俄《にわか》に厳重になったものであったが、しかしそれとても別にコレといった拠《よ》りどころの無い、空想じみた噂に過ぎなかったらしい。警察方面で、そんな方面に力を入れた形跡も無いうちに、刑事たちがパッタリ寄附かなくなったので、村の人々も安心したように口を噤《つぐ》んでしまった。そうして日に増し事件の印象を忘れ勝ちになって行くのであった。
もっともその間じゅう草川巡査は、毎日毎日電話でコキ使われていた。兇器が発見されないかとか、新しい聞込みは無いかとか、区長の財政状態はドウなったかとか、一知は相変らず働いているかとか、もう少し責任を負って仕事をしろ
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