巡査辞職
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)深良一知《ふからいっち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一村|挙《こぞ》って
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+嚊のつくり」、第4水準2−13−55]《か》んで
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前篇
「草川の旦那さん。大変です。起きて下さい。モシモシ。起きて下さい。私は深良一知《ふからいっち》です」
暑い暑い七月の末の或る早朝であった。山奥の谷郷《たにさと》村駐在所の国道に面したホコリだらけの硝子戸《ガラスど》をケタタマシク揺《ゆす》ぶりながら、一人の青年が叫んだ。
それは見るからにここいらの貧乏百姓の児《こ》と感じの違った、インテリじみた色の白い鼻筋のスッキリとした美しい青年であった。青々と乱れた頭髪が、白い額の汗に粘り付いていたが、神経の激動のために、その濃い眉《まゆ》がピクピクと波打って、赤い小さな、理智的な唇がワナワナとわななきながらも、その睫毛《まつげ》の長い黒い瞳は、いい知れぬ恐怖のためであろう。半面を蔽《おお》うた髪毛《かみのけ》の蔭から白いホコリの溜った硝子戸の割れ目を凝視したまま、奇妙にヒッソリと澄んでいた。慌てて走って来たものと見えて、手拭《てぬぐい》浴衣《ゆかた》の寝巻に帯も締めない素跣足《すはだし》が、灰色の土埃にまみれている。
……と……駐在所の入口になっている硝子戸が内側からガタガタと開《あ》いて、色の黒い、人相の悪い顔に、無精鬚《ぶしょうひげ》を蓬々《ぼうぼう》と生した、越中褌《えっちゅうふんどし》一つの逞ましい小男が半身を現わした。
「どうしたんか」
「アッ。草川の旦那さん」
草川巡査は睡《ねむ》そうな眼をコスリコスリ青年の顔を見直した。
「何だ。一知じゃないかお前は……」
「はい。あの……あの……両親が殺されておりますので……」
「何……殺されている? お前の両親が……」
「はい。今朝《けさ》、眼が醒めましたら、台所の入口と私の枕元に在る奥の間《ま》の中仕切《なかしきり》が開け放しになっておりましたから、ビックリして奥の間の様子を見に行ってみますと、お父さんと、お母《っか》さんが殺されております。蚊帳《かや》が釣ってありますので、よくわかりませんが、枕元の畳と床の間のあいだが一面、血の海になっております」
「いつ頃殺されたんか。今朝か……」
「……わかりません。昨夜《ゆんべ》……多分……殺された……らしう御座います」
「泣くな――。たしかに死んでいるのだな」
「……ハイ……ツイ、今しがた、神林医師《かんばやしせんせい》を起して、見に行ってもらいましたが……まだ行き着いて御座らぬでしょう」
「うむ。一寸《ちょっと》待て……顔を洗って来るから」
草川巡査は、裸体《はだか》のまま直ぐに裏口へ出て、冷たい筧《かけひ》の水で顔を洗った。それから大急ぎで蚊帳と寝床を丸めて押入に投込んで、机の上に散らばっていた高等文官試験準備用の参考書や、問題集を二三冊、手早く重ねて片付けると今一度、駐在所の表口へ顔を出した。
「一知……」
「ハイ」
「こっちへ這入《はい》れ、足は洗わんでもええから……」
二人は駐在所の板の間に突立ったまま向い合った。草川巡査の小さな茶色の瞳は、モウ神経質にギロギロと輝き出していた。
「何時頃殺されたんか。わかっとるか」
一知は潤《うる》んだ大きな眼をパチパチさせた。
「……わかりません。昨夜《ゆんべ》十二時頃寝ましたが、今朝起きてみますと、モウ殺されておりましたので……蚊帳越しですからよくわかりませんが、二人とも寝床の中からノタクリ出して、頭が血だらけになっております……」
「それを見ると直《すぐ》に走って来たのだな」
「ハ……ハイ……」
暗い駐在所の板の間に立った一知は涙ながらも恐ろしそうに身震いした。そうして突然に大きな嚏《くしゃみ》を一つしたが、それは汗が乾きかけたせいであったろう。
草川巡査は無言のまま点頭《うなず》いた。傍《かたわら》の警察専用の電話に取付いて烈しくベルを廻転させると、静かな落付いた声で、五里ばかり離れている×市の本署へ、聞いた通りの事実を報告した。……と……向うから何か云っているらしい……。
「……ハ……ハイ。まだ、それ以上の事実はわかりませんので……ハイ。報告して参りました者は深良一知と申しまして村の模範青年です……ハイ。被害者の養子です。ハイ。元来《もともと》、この村の区長の次男であったのですが、今年の二月に深良家……被害者の処へ養子に行った者です。まだ籍は入れていないようですが、ナア一知……お前はまだ籍を入れておらんじゃろ……ウン……そうじゃろ、ハイハイ……何ですか……ハイハイ……その深良家と申しますのは村からチョット離れた小高い丘の上に在ります一軒家で、村の者は皆、深良屋敷深良屋敷と云っております。村でも一番の大地主で、この辺でも指折の富豪です。殺されたというのは、その老夫婦ですが……イヤイヤこの頃この国道にはソンナ浮浪人は通らないようです。以前はよくルンペンらしい者の姿を見かけましたが。ハ……ハイ。承知しました。私はこれから直ぐに現場へ参ります。ハ……お待ちしております」
草川巡査は手早く帽子を冠《かぶ》って、官服のズボンに両脚を突込んで上衣《うわぎ》を引っかけた。編上靴《あみあげぐつ》をシッカリと搦《から》み付けて、勝手口から佩剣《はいけん》を釣り釣り出て来ると、国道とは正反対の裏山に通ずる小径《こみち》伝いにサッサと行きかけたので、表通りで待っていた一知青年は、慌てて追っかけて来た。
「アッ。こんな方へ行くのですか。山道はまだ濡れておりますよ。草川さん……」
草川巡査も何やらハッとしたらしく、そういう一知の何かしら狼狽した、オドオドした眼付きを振返ると、ちょっと立止まって、その顔を穴のあく程凝視したので、一知は見る見る真青になって、唇をワナワナと震わした。しかしその時にフッと気を変えた草川巡査は、
「ウン。人目に付くと五月蠅《うるさい》からね」
と何気なく云い棄てて露っぽい小径の笹の間を蹴分《けわ》け蹴分け急いで行った。
元来この谷郷《たにさと》村は、こうした山奥に在り勝ちな、一村|挙《こぞ》って一家といったような、極めて平和な村だったので、高文《こうぶん》の試験準備をしている草川巡査は最初、大喜びで赴任したものであったが、そのうちに彼の竹を割ったような性格がだんだんと理解されて来るにつれて、村の者から無上の信用と尊敬を受けるようになった。それに連れて村の納税や、衛生の成績がグングン良くなるばかりでなく、以前は山向うの隣県へ逃込もうとして、よくこの村を通過していた前科者などが、今では草川巡査の眼が光っているためにチットモ通らなくなった……という噂まで立つようになっていた。そこへ起った今度の事件なので、草川巡査は最初からチョット一つタタキノメされたような感じで、一種異様な興奮――緊張味を感じているのであった。
しかも草川巡査を興奮させ緊張させた原因は、単にそれだけではなかった。モットモット大きい、恐ろしく深刻な事件の予感が、美青年、深良一知の声を聞いた一|刹那《せつな》から黒い嵐雲《らんうん》のように草川巡査の全神経に圧しかかって来たのであった。
深良屋敷の老夫婦が、非業な死に方をするに違いないという事は、ズット以前から村中の人々が一人残らず心の片隅で予感していたところであった。……今に見ろ。ロクな死に方をしないから……といって深良屋敷を呪咀《のろ》わない村の人間は恐らく今までに一人も居なかったであろうと思われるくらい深良屋敷は、村中の怨恨《うらみ》の焦点になっていたもので、その意味からいうと、この村の人々は一人残らず今度の事件の嫌疑者か共犯者と考えてもいい……といったような極端に神秘的な因縁が、今度の事件に絡《から》まっているのであった。それがこうして突然に実現されたのだから万一、村の人々にこの事が知れ渡ったら、皆、今更のようにハッと顔を見合わせて、お互い同志を疑い合うであろう。それと同時に草川巡査にとっては、想像も及ばない探査の困難な殺人事件……村民全部が嫌疑者……といったような極度の神秘的な深みを持った迷宮事件を押付けられたようなもので、ちょうど横綱と顔を合わせた褌担《ふんどしかつ》ぎみたような自分の力の微弱さを、今更のように思い知らずにはいられないのであった。
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……これが俺の失敗のタネになりはしないか……永い間の高文の試験準備で、疲れ切っている俺のアタマは、こうした現実の出来事に向かないくらい弱々しく、過敏になっているのではないか……。
……とにも角《かく》にも、どこまでも慎重に……慎重に取りかからねばならぬ……あくまでもヘマをやってはならぬ……。
[#ここで字下げ終わり]
といったような、武者振いがまだ具体的に現われて来ない前のような神秘的な戦慄《せんりつ》に、草川巡査は襲われて仕様がないのであった。そうしてそのドキドキした予感を中心にして、深良屋敷の惨劇を裏書きしているらしい色々な過去の前兆が、眩《まぶ》しいくらい明るい、又はジメジメと薄暗い木立の中を押分けて行く草川巡査の、勉強に疲れた記憶力の中に、今更のようにマザマザと浮み上って来るのであった。
深良屋敷というのは村外《むらはず》れの国道から二三町北へ曲り込んだ、小高い丘の上の雑木林に囲まれた小さな一軒家であった。もっともズット以前の明治三十年頃までは、深良家の先祖代々が住んでいた巨大な母家《おもや》が、雑木林の下の段の平地に残っていたが、それが現在の牛九郎爺さんの代になると、極端な労働《アラシコ》嫌いの算盤《そろばん》信心で、経費が掛るといって、その一段上の雑木の中に在るタッタ三|室《ま》しかない現在の離家《はなれ》に移り住むようになった。同時に牛九郎爺さんはその巨大な母家をアトカタもなく取片付けて隣村の大工に売払い、数多い雇人《やといにん》をタタキ放し同様にして追出してしまい、有る限りの田畑《でんぱた》をソレゾレ有利な条件で小作に附け、納まりの悪い小作人の所有の田畑は容赦なく法律にかけて、自分の名前に書換えて行った。それに又、配偶《つれあい》のオナリという女が亭主に負けない口達者のガッチリ者で、村の女房達が第一の楽しみにしている御大師様や、妙法様の信心ごとの交際《つきあい》なぞには決して出て来ない。のみならず臍繰金《へそくりがね》を高利に廻して、養蚕《ようさん》や米の収穫後になると透《す》かさずに自分で出かけて、ピシピシと取立てたりするようになったので、深良屋敷の老夫婦に対する村中の気受《きうけ》がイヤでも悪くなって来るばかりであった。
「今に見ておれ。あの夫婦は碌《ろく》な死にようはせぬから……信心をせぬような犬畜生にはキット天道《てんとう》様の罰《ばち》が当る」
とか何とか蔭口を云う者が方々に出て来るようになったが、勿論それ位の事に驚くような牛九郎夫婦ではなかった。殊に住んでいる場所が場所だけに、村の人々の気持と全然かけ離れた別人種扱いにされながらも、平気で我利我利亡者《がりがりもうじゃ》に甘んじて、極めてヒッソリと暮しているのであった。
しかし、それでも、その丘の上一帯の森の木立は、流石《さすが》に昔の大きな深良屋敷の構えの面影を止《とど》めていた。夜になるとさながらに巨大な城砦か、神秘的な島影のように真黒々と星空に浮出して、昔ながらに貧弱な村の風景を威儼《いげん》していたので、小さな住居《すまい》に不似合な深良屋敷の名称も、自然、昔のまんまに残っているのであった。
その深良屋敷の老夫婦の間にはマユミという娘がタッタ一人あった。しかも、それが非常な美人だったので「深良小町」の名が近郷近在に鳴り響いているのであったが、可哀相な事にそのマユミは学問上で早発性痴呆という半分生れ付み
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