たような薄白痴《うすばか》であった。大まかな百姓仕事や、飯爨《めしたき》や、副食物《おかず》の世話ぐらいは、どうにかこうにか人間並に出来るには出来たが、その外《ほか》の読み書き算盤《そろばん》はもとより、縫針なんか一つも出来なかった。妙齢《としごろ》になっても畑の仕事の隙《ひま》さえあれば、蝶々を追っかけたり、草花を摘んだりしてニコニコしている有様なので、世話の焼ける事、一通りでなかったが、それを母親のオナリ婆さんが、眼の中に入れても痛くない位可愛がって、振袖を着せたり、洟汁《はな》を※[#「てへん+嚊のつくり」、第4水準2−13−55]《か》んでやったりしているのであった。
しかし何をいうにも、そんな状態《ありさま》なので、誰一人婿に来る者が無いのには両親とも弱り切っていた。のみならず所謂《いわゆる》、白痴美というのであろう。その底無しの無邪気な、神々《こうごう》しいほどの美しさが、誰の目にもたまらない魅力を感じさせたので、さもなくとも悪戯《いたずら》好きな村の若い者は皆申合わせたように「マユミ狩」と称して、夜となく昼となく深良屋敷の周囲をウロ附いたものであった。マユミの白痴をいい事にして入れ代り立代り、間《ま》がな隙《すき》がな引っぱり出しに来るので、そのために両親の老夫婦は又、夜《よ》の眼も寝ない位に苦労をして追払わなければならなかった。
しかしその中にタッタ一人、このマユミにチョッカイを出しに来ない青年が居た。それはこの谷郷村の区長、乙束《おとづか》仙六という五十男の次男坊であった。村では珍らしく中学校まで卒業した、一知という男で、村の青年は皆、学者学者と綽名《あだな》を呼んで別扱いにしている今年二十三歳の変り者であった。
ちょうどその頃、一知の父親の乙束仙六は、養蚕の失敗に引続く信用組合の公金|拐帯《かいたい》の尻を引受けて四苦八苦の状態に陥り、東京で近衛《このえ》の中尉を勤めている長男の仙七の血の出るような貯金までも使い込んでいる有様で、心労の結果ヒドイ腎臓病と神経衰弱に陥って寝てばかりいる状態《さま》は、他所《よそ》の見る目も気の毒な位であったが、しかし次男坊の一知は、そんな事を夢にも気付かないらしく、自分勝手の呑気な道楽仕事にばかり熱中していた。
その道楽仕事というのは、中学時代から凝《こ》っていたラジオで、幾個《いくつ》も幾個も受信機を作っては毀《こわ》し作っては毀しするので、彼の勉強部屋になっている区長の家《うち》の納屋の二階は、誰にもわからない器械器具の類で一パイになっていた。村の人々は、
「聴かぬためのラジオなら、作らん方が好《え》え。学者馬鹿たあ、よう云うたる」
と嘲笑し、両親も持て余して、好きにさせているという、一種の変り者で、いわばこの村の名物みたようになっているのが、この一知青年であった。
だからその一知が、牛九郎老夫婦の眼に止まって婿養子に所望されると、両親の乙束区長夫婦は一議にも及ばず承知した。一知もラジオ弄《いじ》りさえ許してもらえれば……という条件附で承知したもので、その纏まり方の電光石火式スピードというものは、万事に手緩《てぬる》い村の人々をアッと云わせたものであったが、それから又間もなく一知は、この村の習慣《しきたり》になっている物々しい婿入りの儀式を恥しがったものか、それともその式の当夜の乱暴な水祝《みずいわい》を忌避《いや》がったものか、双方の両親が大騒ぎをして準備を整えている二月の末の或る夜の事、自分の着物や、書物や、色々な器械屑なんぞを、こっそりとリヤカーに積んで、深良屋敷へ運び込み、そのまま何と云われても出て行かないで頑張り通し、双方の両親たちを面喰わせ、村中を又もアッと云わせたものであった。
そうしてそれから後《のち》、小高い深良屋敷を囲む木立の間から眩しい窓明りと共に、朗らかなラジオの金属音が、国道添いの村の方へ流れ落ち初めたのであった。
「イッチのラジオが、やっとスウィッチを入れたバイ」
と青年達は甘酸っぱい顔をして笑った。
しかし谷郷村の人々の驚きは、まだまだ、それ位の事では足りなかった。
深良《ふから》屋敷の若い夫婦は、新婚|匆々《そうそう》から、猛烈な勢いで働き出したのであった。今まで肥柄杓《こえびしゃく》一つ持った事のない一知が、女のように首の附根まで手拭で包んだ、手甲脚絆《てっこうきゃはん》の甲斐甲斐しい姿で、下手糞ながら一生懸命に牛の尻を追い、鍬《くわ》を振廻して行く後から、薄白痴《うすばか》のマユミが一心不乱に土の上を這いまわって行くのを、村の人々は一つの大きな驚異として見ない訳に行かなかった。
一知は間もなく両親に無断で、小作人と直接談判をして、麦を蒔《ま》いた畠を一町歩近くも引上げて、ドシドシ肥料を遣り始めた。村の人々はその無鉄砲に驚いていたが、その丹精が一知夫婦だけで立派に届いて、見事に実った麦が丘の下一面に黄色くなって来ると、最後まで冷笑していた牛九郎老夫婦も、流石《さすが》に吃驚《びっくり》したらしい。養子夫婦の親孝行のことを今更のように村中に吹聴してまわり始めた。一知の掌《てのひら》が僅かの間に石のように固くなっている事や、娘のマユミが一知と二人ならば疲れる事を知らずに働く事なぞを繰返し繰返し喋舌《しゃべ》って廻るので村の人々は相当に悩まされた。
ところが不思議な事に、そんな序《ついで》に話がラジオの事に移ると、何故かわからないが牛九郎夫婦は、あまり嬉しくない顔色を見せた。殊にそのラジオ嫌いの程度はオナリ婆さんの方が非道《ひど》いらしかった。
「まあ結構じゃ御座んせんか。毎晩毎晩何十円もする器械で面白いラジオを聞いて……」
なぞと挨拶にでも云う者が居るとオナリ婆さんは、きまり切って乱杙歯《らんぐいば》を剥出《むきだ》してイヤな笑い方をした。片足を敷居の外に出しながら、すこし勢込んで振返った。
「ヘヘヘ。あれがアンタ玉に疵《きず》ですたい。承知で貰うた婿じゃけに、今更、苦情は云われんけんど、タッタ三|室《ま》しかない家《うち》の中が、ガンガン云うて八釜《やかま》しうてなあ……それにあのラジオの鳴りよる間が、養子殿の極楽でなあ。夫婦で台所に固まり合うて、何をして御座るやら解らんでナ。ヘヘヘヘ……」
あとを見送った人々は取々《とりどり》に云った。
「何なりと難癖を附けずにゃいられんのが、あの婆さんの癖と見えるなあ。ハハハ」
それから後《のち》、そのオナリ婆さんが一知の畠仕事に附いてまわって、色々と指図をしているのを見て、
「ソレ見い。何のかのと云うても一知の働らき振りはあの婆さんの気に入っとるに違いないわい。そこで慾の上にも慾の出た婆さんが、出しゃばって来て、あの上にも一知を怠けさせまいと思うて要らぬ指図をしよるに違いない。あれじゃ若夫婦もたまらんわい」
と云ったり、それから後、深良屋敷のラジオがピッタリと止んで、日が暮れると間もなく真暗になって寝静まるのを見た人々が、
「あれは一知がラジオの械器を毀《こわ》したのじゃないらしい。婆さんが費用を吝《お》しんで止めさせたものに違いない。一知さんも可哀そうにのう。タッタ一つの楽しみを取上げられて」
と同情した位の事であった。
然《しか》るにその一知夫婦の苦心の麦の収穫が、深良屋敷の算盤に乗った頃から、まだ一個月と経たぬ今朝《けさ》になって、その牛九郎夫婦が殺されている……というのは、普通の場合の意外という以上の意外な意味が籠《こも》っているように思われるのであった。だから、これは非常に簡単明瞭な、偶発的な事件か、もしくは一筋縄で行かない深刻、微妙な事件に相違ない……といったような予感が、今朝《けさ》、最初に一知の美しい顔を見た瞬間から、ヒシヒシと草川巡査の疲れた神経に迫って来たのであった。ありふれた強盗、強姦、殺人事件にばかりぶつかって最初から犯人のアタリを附けてかかる流儀に慣れ切っている草川巡査は、この事件に限って、実際、暗黒の中を手探りで行くような気迷いを感じながら、駐在所を出たものであった。
ところが、それから間もなく草川巡査が、山の中の近道へ廻り込んだ時に、深良一知青年が、背後《うしろ》から叫んだ声を聞くと、そのトタンに草川巡査の心気が一転したのであった。勉強疲れで過敏になっている草川巡査の神経の末梢に、一知青年の叫び声は、あまりに手強く、異常に響いたのであった。それは無論、深良一知が偶然に発した叫び声で、別段に深い意味も何も無い驚きの声に相違ないのであったが。これが所謂、第六感というものであったろうか。何故という事なしに、
「犯人はドウヤラこの一知らしい」
という直感が、草川巡査の脳髄のドン底にピインと来たのであった。それも、やはり何の理由も根拠も無い。ただそんな風に感じただけの感じであったが、それでもそうした無意識の叫びの中に、一知の心理の奥底に横たわっている普通とは違った或る種の狼狽と恐怖心が、偶然にも一パイに露出しているのを、病的に過敏になっている草川巡査の神経の末梢がピッタリと捕えたのであろう。一知を従えて山の中を分けて行く僅《わずか》の間《ま》に「コイツが犯人に相違ない」という確信が、草川巡査の脳髄の中へグングンと高潮して来るのを、どうする事も出来なくなった。それに連れて草川巡査の意識の中には、
――何という図々《ずうずう》しい奴だろう――
――絶体絶命の動かぬ証拠を押える迄は、俺は飽く迄も知らん顔をしてくれよう――
といったような極度に意地の悪い考えと、
――コンナ柔和な、美しい、親孝行で評判の模範青年に疑いをかけたりするのは、俺のアタマがどうかなっているせいじゃないか知らん――
――万一、実際の証拠が揚がらないとすれば、コンナにも美しい、若い夫婦の幸福を出来る限り保護してやるのが、人間としての常識ではないか――
といったような全然、相反《あいはん》する二つの考えが、草川巡査の神経の端々を組んず、ほぐれつ、転がりまわり初めたのであった。
太陽はまだ地平線を出たばかりなのに、草川巡査と一知が分けて行く森の中には蝉《せみ》の声が大浪を打っていた。その森を越えた二人は無言のまま、直ぐ鼻の先の小高い赤土山の上にコンモリと繁った深良屋敷の杉の樹と、梅と、枇杷《びわ》と、橙《だいだい》と梨の木立に囲まれている白い土蔵の裏手に来た。草川巡査はあとからあとから湧き起って、焦げ付くように消えて行く蝉の声のタダ中に、昨夜《ゆうべ》のままの暗黒を閉め切ってあるらしい奥座敷の雨戸をグルリとまわった時に、云い知れぬ物凄い静けさを感じたように思ったが、やがて半分|開《あ》いたままの勝手口まで来ると、その暗い台所の中で、何かしていた美しい嫁のマユミが、頭に冠っていた白い手拭を取って、ニコニコしながら顔を出した。
「あら……お出《い》でなされませ」
と叮嚀《ていねい》にお辞儀をしたが、その笑顔を見ると、まだ両親が殺されている事を少しも知らないでいるらしい。極めて無邪気な、人形のような美しい微笑を浮かべていたので、こんな事に慣れ切っていた草川巡査が、何故ともなく慄然《ぞっ》とさせられた。
「マユミさんはまだ何も知らんのかね」
と草川巡査は眼を丸くしたまま小声でそう云って背後《うしろ》を振返ってみた。汗を拭いていた一知青年が、急に暗い、魘《おび》えたような眼付をしてうなずいたのを見ると、草川巡査も何気なく点頭《うなず》いてマユミを振返った。
「マユミさん。今、神林先生が来はしなかったかね」
マユミはいよいよ美しく微笑んだ。
「アイ。見えました」
「その時にマユミさんは起きておったかね」
「イイエ。良う寝ておりました。ホホ。神林先生が起して下さいました」
「ウム。何か云うて行きはしなかったかね」
「アイ。云うて行きなさいました。巡査さんを呼んで来るから、お茶を沸かいておけと云って走って出て行きなさいました。それで……アノ……ホホホ……」
「何か可笑《おか》しい事があるかね」
「……アノ……その入口に引っかかって転んで行きなさいました……ホ
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