よ。だけどこの時ばかりは学者の奥さんになるのだからと思って、ずっと前から欲しくてたまらなかった型の小さい、上品なのを別に買って、バスケットの底に仕舞《しま》っておいたわ。ええ。それあ嬉しかったわよ。だってどうせ両親に売り飛ばされて、こんな酒場《レストラン》の踊り子になっている身の上ですもの……おまけに生れて初めて妾を可愛がってくれて、色んな楽しみを教えてくれたのが、そのヤングなんですもの……その頃の妾は今みたいな、オシャベリの女じゃなかってよ。どんな男を見ても怖ろしくて気味がわるくて、思うように口も利けない中に、たった一人そのヤングだけが怖くなかったんですもの……アラ……御免なさいね。泪《なみだ》なんか出して……妾……男の方の前で、こんな事を云って泣くのは今夜が初めてよ。ネ……笑わないでね。

 そうしたら……そうしたらね、ちょうどあと月《げつ》だから十月の末の事よ。ヤングがいつになく悄気《しょげ》た顔をして這入《はい》って来て、この室《へや》で妾と差し向いになると、何杯も何杯もお酒を飲んだあげくにショボショボした眼付きをしながら、こんな事を云い出したの……。
「可愛い可愛いワーニャさ
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