越えてみますれば……狙う讐仇《かたき》の一柳斎は……貴方様の御師匠さま……」
平馬をマトモに見上げた顔から、涙が止め度もなく流れ落ちた。その身内の戦《おのの》かしよう……肩の波打たせようは、どう見ても真実こめた女性の、思い迫った姿に見えた。
平馬は地獄に落ちて行く亡者のような気持になった。乾いた両眼をカッと見開いて、遠い遠い涯てしもない空間を凝視していた。
その眼の前に泣き濡れた、白い顔が迫って来た。噎《む》せかえる女性の芳香《かおり》と一所に……。
「……それで……それで……妾は……貴方様のお手に掛かりに……まいりました」
ハッとした平馬は二尺ばかり飛び退《の》いた。
「……ナ……何と……」
「……妾は、父の怨みを棄てました、不孝な女で御座います。小田原の松原からこのかた、あ……貴方様の事ばっかり……思い詰めまして……」
「……エエッ……」
「……お……お慕い申して参りました。討たれぬ……討っては成りませぬ仇《かたき》とは存じながら……ここまで参いりました。せめて貴方様の……お手にかかりたさに……一と思いの……御成敗が受けたさに……受けとうて……」
と云ううちにキッと唇を噛んだ若侍の姿がスルスルと後《あと》へ下がった。……それは云い知れぬ思いに燃え立つ妖火のような頬の輝やき、眼の光り……と見るうちに懐中《ふところ》の匕首《あいくち》、抜く手も見せず、平馬の喉元へ突きかかった。
「……アッ。心得違い……めさるなッ」
危うく右へ飛び退《の》いた平馬は、まだ居住居《いずまい》を崩さずに両手を膝に置いていた。
「……乱心……乱心召されたかッ……讐仇《かたき》は讐仇《かたき》……身共は身共……」
と助けてやりたい一心で大喝した。
一方に空を突いた若侍姿はモウ前髪を振り乱していた。とても敵《かな》わぬと観念したらしく、平馬の大喝の下《もと》に息を切らしながら眼を閉じたが、又も思い切って見開くと、火のような瞳を閃めかした。
「……ヒ……卑怯者ッ。その讐仇《かたき》を討つのに……邪魔に……邪魔になるのは貴方一人……」
「……エエッ……さてはおのれ……」
「お覚悟ッ……」
という必死の叫びが、絹を裂くように庭先に流れた。白い光りが一直線に平馬の胸元へ飛んだが、床の間の脇差へかかった平馬の手の方が早かった。相手が立ち上りかけた肩先を斬り下げていた。
その切先《きっさき》に身を投げかけるようにして来た相手は、そのまま懐剣を取落して仰《の》けぞった。両手の指をシッカリと組み合わせたまま、あおのけに倒おれると、膝頭をジリジリと引き縮めた。涙の浮かんだ眼で平馬を見上げながらニッコリと笑った。
「……本望……本望で……御座います。平馬様……」
そう云ううちに、袈裟《けさ》がけに斬り放された生平《きびら》の襟元がパラリと開いた。赤い雲から覗いた満月のような乳房が、ブルブルとおののきながら現われた。
「……すみませぬ……済みま……せぬ……。今までのことは、何もかも……何もかも……偽り……まことは妾《わたくし》は……女……女役者……」
と云いさして平馬の方向《ほう》へガックリと顔を傾けた……が……しかし、それは苦痛のためらしかった。そのまま眼を閉じてタップリと血を吐いた。……と見るうちに下唇を深く噛んで、白い小さな腮《あご》を、ヒクリヒクリとシャクリ上げはじめた。
平馬は血刀を掲《ひっさ》げたまま茫然となっていた。
「……ええ。お頼み申します。お取次のお方はおいでになりませぬか。手前は見付の佐五郎と申す者で御座います。どなたかおいでになりませぬか。お頼み申しますお頼み申しますお頼み申します……」
という性急な案内の声を他所《よそ》事のように聞いていた。
一柳斎は伸び伸びと肩を上げてうなずいた。
「いや。無事にお届が相済んで祝着この上もない……まず一献《いっこん》……」
贋《に》せ侍斬りに就いて大目附へ出頭した紋服姿の石月平馬と、地味な木綿縞《もめんじま》に町の低い役袴《やくばかま》を穿いた三五屋、佐五郎老人が、帰り道に招かれて夕食の饗応《もてなし》を受けていた。大盆を傾けた一柳斎は早くも雄弁になっていた。
「……のう……一存の取計らいとはいう条、仮初《かりそめ》にも老中の許し状を所持致しておる人間じゃ。無下《むげ》に斬棄てたとあっては、無事に済む沙汰ではないがのう……お江戸の威光も地に墜ちかけている今日なればこそじゃ。それに又、佐五郎老体の言葉添えが、最初から立派であったと云うからのう。番頭《ばんがしら》の筆頭が感心して話しおったわい」
「どう仕りまして……無調法ばかり……」
「いや。なかなかもって……お関所破りの贋《に》せ若衆とあれば天下の御為に容易ならぬ曲者《くせもの》と存じ、当藩の役柄の者に付き纏うところを、ここまで逐《
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