座います」
 若侍は美しく耳まで石竹色《せきちくいろ》に染めて眼を輝やかした。
「イヤ。まずまずお話はあとから……こちらへ上り下されい。手前一人で御座る。遠慮は御無用。コレコレ金作金作。お洗足《すすぎ》を上げぬか……サアサア穢苦《むさくる》しい処では御座るが……」
 平馬は吾にもあらず歓待《ほと》めいた。
 若侍は折目正しく座敷に通って、一別以来の会釈をした。平馬も亦、今更のように赤面しいしい小田原と見付の宿の事を挨拶した。
「いや……実はその……あの時に折角の御厚情を、菅《すげ》なく振切って参いったので、その御返報かと心得まして、存分に讐仇《かたき》を討たれて差上げた次第で御座ったが……ハハハ……」
 平馬は早くも打ち解けて笑った。
 しかし若侍は笑わなかった。そのまま眩《ま》ぶしい縁側の植え込みに眼を遣ったが、その眼には涙を一パイに溜めている様子であった。
「……して御本懐をお遂げになりましたか」
「はい。それが……あの……」
 と云ううちに若侍の眼から涙がハラハラとあふれ落ちた……と思う間もなく畳の上に、両袖を重ねて突伏すと、声を忍んで咽《むせ》び泣き初めた。……そのスンナリとした襟筋……柔らかい背中の丸味……腰のあたりの膨らみ……。
 平馬は愕然となった。
 ……女だ……疑いもない女だ……。
 と気付きながら何も彼《か》も忘れて唖然となった。
 ……最初からどうして気付かなかったのであろう……恩師一柳斎の言葉はこの事であったか。あの時に、どう処置を執《と》るかと尋ねられたが……これは又、何としたものであろう……。
 と心の中《うち》で狼狽した。顔を撫でまわして茫然となった。
 その平馬の前に白い手が動いて二通の手紙様の物をスルスルと差出した。そのまま、拝むように一礼すると、又も咽泣《むせびなき》の声が改まった。
 平馬は何かしら胸を時《とき》めかせながら受取った。押し頂きながら上の一通を開いてみた。
 ボロボロの唐紙《とうし》半切《はんせつ》に見事な筆跡で、薄墨の走り書きがしてあった。
[#天から4字下げ]遺言の事
 一、父は不忍《しのばず》の某酒亭にて黒田藩の武士と時勢の事に就《つき》口論の上、多勢に一人にて重手《おもで》負い、無念ながら切腹し相果《あいは》つる者也。
 一、父の子孫たる者は徳川の御為《おんため》、必ずこの仇《あだ》を討果《うちはた》すべき者也。仮令《たとい》血統断絶致すとも苦しからざる事。
 一、敵手《あいて》の中の主立《おもだち》たる一人は黒田藩の指南番浅川一柳斎と名乗り、五十前後の長身にて、骨柄逞ましき武士なること。
 一、後々《あとあと》の事は母方の縁辺により、御老中、久世広周《くぜひろちか》殿に御願申上べき事 以上。
[#地から4字上げ]友川三郎兵衛矩兼血判
[#地から2字上げ]嫡男 長一郎矩道代筆印
[#地から2字上げ]次男 三次郎矩行  印
[#天から2字下げ]文久二年五月十四日
 又、別紙奉書の※[#「田/(田+田)」、第4水準2−81−34]紙《らいし》には美事なお家様の文字が黒々と認《したた》めてあった。
 別紙遺言状相添え、病弱の兄に代り、次男友川三次郎矩行、仇討執心の趣、殊勝の事。但、御用繁多の折柄に付《つき》、広周一存を以て諸国手形相添え差許《さしゆるす》者也《ものなり》。尚本懐の上は父三郎兵衛の名跡《みょうぜき》相違なかるべき事、広周|可含置《ふくみおくべき》者也《ものなり》
[#天から2字下げ]文久|壬戌《じんじゅつ》二年六月二日 広周 書判
 平馬の顔から血の色が消えた。何もかも解かったような気がすると同時に、又も、眼の前が真暗になって来たので、吾れ知らず二通の手紙を握り締めた。自分の恩師を不倶戴天の仇《あだ》と狙う眼の前の不思議な女性を睨み詰めた。
 その時に若衆姿の女性が、やっと顔を上げた。平馬の凄じい血相を見上げると、又も新しい涙を流しながら唇を震わした。
「……御覧の……通りで御座います。兄も……弟も労咳《ろうがい》で臥せっておりまする中にタッタ一人の妾《わたくし》が……聊《いささ》か小太刀の心得が御座いますのを……よすがに致しまして、偽りの願書を差出しました。……そうして……そうして、お許しを受けますと……御免状の通り男の姿に変りまして……首尾よく箱根のお関所を越えました。それから他人《ひと》様に疑われませぬように、色々と姿を変えまして、どうがな致してこの思いを、貴方《あなた》様にだけ打ち明けたいと、心を砕きました甲斐もなく、関所破りの疑いをかけたらしい腕利きの老人に、どこからともなく附き纏われまして生きた空もなく逐《お》い廻わされました時の、怖ろしゅう御座いましたこと……それから四国路まで狭迷《さまよ》いまして、千辛万苦致しました末、ようようの思いで当地に立
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