…」
「人間、人情の取々様々《とりどりさまざま》、世間風俗の移り変りまでも、及ぶ限り心得ているのが又、大きな武辺のたしなみの一つじゃ。それが正直一遍、忠義一途に世の中を貫いて行く武士のまことの心がけじゃまで……さもないと不忠不義の輩《やから》に欺されて一心、国家を過《あやま》つような事になる。……もっともお手前の今度の過失《あやまち》は、ほんの仮初《かりそめ》の粗忽《そこつ》ぐらいのものじゃが、それでもお手前のためには何よりの薬じゃったぞ」
「……と仰せられますると……」
「まま。待たれい。それから先はわざと明かすまい。その中《うち》に解かる折もあろうけに……とにも角にもその見付の宿の主人《あるじ》サゴヤ佐五郎とかいう老人は中々の心掛の者じゃ。年の功ばかりではない。仇討免状の事を貴殿に尋ねたところなぞは正《まさ》に、鬼神を驚かす眼識じゃわい」
「……と……仰せられますると……」
若い平馬の胸が口惜しさで一パイになって来た。それを色に出すまいとして、思わず唇を噛んだ。
「アハハハ。まあそう急がずと考えて見さっしゃれ。アッサリ云うてはお手前の修行にならぬ。……もっともここの修行が出来上れば当流の皆伝を取らするがのう……」
「……エッ。あの……皆伝を……」
「ハハハ。今の門下で皆伝を許いた者はまだ一人もない。その仔細《わけ》が解かったかの……」
平馬は締木《しめぎ》にかけられたように固くなってしまった。まだ何が何やらわからない慚愧《ざんき》、後悔の冷汗が全身に流るるのを、どうする事も出来ないままうなだれた。
「……平馬殿……」
「……ハッ……」
「貴殿の御縁辺の話は、まだ決定《きま》っておらぬげなが、程よいお話でも御座るかの……」
平馬は忽ち別の意味で真赤になった。……自分の周囲に縁談が殺到している……「娘一人に婿八人」とは正反対の目に会わされている……という事実を、今更のようにハッキリと思い出させられたからであった。
「うむうむ。それならば尚更のことじゃ。念のために承っておくがのう。その今の話の美くしい若侍とか、又は見付の宿の奥方姿の女とかいうものが、万一、お手前を訪ねて来たとしたら……」
「エッ。尋ねて参りまするか……ここまで……」
「おおさ。随分、来まいものでもない仔細がある。ところで万が一にもそのような人物が、貴殿を便《たよ》って来たとしたら、どう処置をさっしゃるおつもりか貴殿は……」
「……サア……その時は……とりあえず以前の馳走《ちそう》の礼を述べまして……」
「アッハッハッハッハッハッ……」
一柳斎は後手《うしろで》を突《つ》いて伸び伸びと大笑した。
「アハアハ。いやそれでよいそれでよい。そこが貴殿の潔白なところじゃ。人間としては免許皆伝じゃ」
平馬は眼をパチパチさせて恩師の上機嫌な顔を見守った。何か知ら物足らぬような、馬鹿にされているような気持ちで……。しかし一柳斎はなおも天井を仰いで哄笑した。
「アハハハ……これは身どもが不念《ぶねん》じゃった。貴殿の行末を思う余りに、要らざる事を尋ねた。『予《あらかじ》め掻《か》いて痒《かゆ》きを待つ』じゃった。アハアハアハ。コレコレ。酒を持て酒を……サア平馬殿|一献《いっこん》重ねられい。不審顔をせずとも追ってわかる。貴殿ならば大丈夫じゃ。万が一にも不覚はあるまい」
平馬は南向の縁側へ机を持ち出して黒田家家譜を写していた。一柳斎から「世間|識《し》らず」扱いにされた言葉の端々《はしばし》が気にかかって、何となく稽古を怠けていたのであった。
その鼻の先の沓脱《くつぬぎ》石へ、鍬《くわ》を荷いだ若党の金作がポカンとした顔付で手を突いた。
「……あの……申上げます」
「何じゃ金作……草取りか……」
「ヘエ……その……御門前に山笠《やま》人形のような若い衆が……参いりました」
「……何……人形のような若衆……」
「ヘエ……その……刀を挿《さ》いて見えました」
「……お名前は……」
「……ヘエ……その……友川……何とか……」
平馬は無言のまま筆を置いて立上った。今までの不思議さと不安さの全部を、一時に胸の中《うち》でドキンドキンと蘇らせながら……。
ところが玄関に出てみると最初に見かけた通りの大前髪《おおまえがみ》に水色襟、紺生平《こんきびら》に白|小倉袴《こくらばかま》、細身の大小の柄《つか》を内輪《うちわ》に引寄せた若侍が、人形のようにスッキリと立っていた。すこし日に焼けた横頬を朝の光に晒《さら》しながらニッコリとお辞儀をしたので、こちらも思わず顔を赤めて礼を返さない訳に行かなかった。
……これ程に清らかな、人品《じんぴん》のいい若侍をどうして疑う気になったのであろう……。
と自分の心を疑う気持ちにさえなった。
「……これは又……どうして……」
「お久しゅう御
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