お》い詰めて参いったとあれば、大目附でも言句《げんく》はない筈じゃからのう……殊更に御老中の久世広周《くぜひろちか》殿も、お役御免の折柄ではあるし、迂濶な咎め立てをしようものなら却って無調法な仇討《あだうち》免状が表沙汰になろうやら知れぬ。思えば平馬殿は都合のよい『生き胴』に取り当ったものじゃのう。ハッハッハッ……」
 酌をしていた奥方が、心から感心したように平馬の顔を見てうなずいた。
「……あれからこの四五日と申しますもの、御城下では平馬殿のお噂ばっかり……」
「うむうむ。そうあろうとも……イヤ。天晴《あっぱれ》で御座ったぞ平馬殿。あの時に、どう処置をされるおつもりかと聞いたのはここの事じゃったが……ハッハッ。よう見定めが附いたのう。佐五郎殿。そうは思われぬか……」
「御意《ぎょい》に御座います。先生様の御|丹精《たんせい》といい、その場を立たせぬ御決断とお手の中《うち》……拝見致しながら夢のように存じました」
「うむうむ。然るにじゃ。あの女の正体を平馬殿の物語りの中から見破って来た、佐五郎老体の眼鏡の高さも亦、中々もって尋常でないわい。実はその手柄話を聞きたいが精神《こころ》で、平馬殿に申し含めて、斯様《かよう》に引止めさせた訳じゃが……門弟共の心掛にもなるでのう」
「身に余りまするお言葉、勿体のう存じまする。幅広う申上げまする面目も御座りませぬが、初めて石月様のお物語を承っておりますうちにアラカタ五つの不審が起りました」
「成る程……その不審というのは……」
「まず何よりも先に不審に存じましたのは、仇討《あだうち》に参いる程の血気の若侍が、匂い袋を持っていたというお話で御座いました。まことに似合わしからぬお話で……これは、もしや女人《にょにん》の肌の香《か》をまぎらわせるためではないかと疑いながら承わっておりますると案の定、それから後《のち》の石月様の心遣いに、女ならでは行き届きかねる節々が見えまする……これが二つ……」
「尤も千万……それから……」
「三つにはその足の早さ……四つには、その並外れた金遣い、……それから五つにはその眼を驚かす姿の変りようで御座りまする」
「いかにものう……恐ろしい理詰めじゃわい」
「ザッと右のような次第で、つまるところこれは稀代の女白浪《おんなしらなみ》ではあるまいか。さもなければお話のような気転、立働らきが出来る筈はないと存じ寄りましたのが初まりで……」
「うむうむ……」
「年寄の冷水とは存じましたが、御覧の通り最早《もはや》六十の峠を越えました下り坂の私。空車《からぐるま》を引いている折柄で御座います、戻り駄賃に一世一代の大物を引いて見ようか……と存じますと一気に釣り出された仕事で御座いましたが、タッタ一足の事で石月様に先手を打たれまして……ヘヘヘ。面目次第も御座いませぬ」
「イヤイヤ。それにしても流石《さすが》は老練じゃ。並々の者に足跡を見せる女ではないわい」
「……ところでお言葉はお言葉と致しまして、ここに一つの不審が御座りまするが如何で御座りましょうか。御無礼とは存じますれど……」
「何の何の。何の遠慮が要ろう。何なりと存分に問うて見られい」
「ヘヘイ。有難う存じまする。それではお伺い申上げまするが、先生様が、石月様のお話から、仇討《あだうち》免状の正体カラクリを、お覚《さと》りになりました次第と申しまするは……」
「アハアハ。何事かと思うたればその事か。それなれば何でもない。他愛もない事じゃ」
「……と……仰せられまするは……」
「うむ。追ってお尋ねを受ける事と思うが、実は身共も少々あの女に掛り合いがあっての」
「ヘエッ。これは亦、思いも寄りませぬ」
「ほかでもない。忘れもせぬ昨年の十月の末の事じゃ。久方振りに殿の御用で江戸表へ参いっておる中《うち》に、あの願書の当の本人、友川矩行という若侍から父の仇敵《かたき》と名乗り掛けられてのう……」
「ヘエッ。いよいよ以て不思議なお話……」
「おおさ。しかも馬場先の晴れの場所で、助太刀《すけだち》らしい武士が二人引添うておったが聊《いささ》か肝を奪われたわい。面目ない話じゃが聊か身に覚えのない事じゃまで……」
「成る程……御尤《ごもっと》も様で……」
「しかし迂濶に相手はならぬ。何か仔細がある事と思うたけに咄嗟《とっさ》の間《ま》に身を引きながら、如何にも身共は黒田藩の浅川一柳斎に相違ないが、何か拙者を讐仇《かたき》と呼ばれる仔細が御座るか。然るべき仇討《あだうち》の免状でも持っておいでるかと問うてみたればそれは無い。在るには在ったが、浅草観世音の境内で懐中物と一所に掏《す》られてしもうたと云うのじゃ」
「ハハア。どうやら様子がわかりまする」
「うむうむ。そこで……然らば、お気の毒ながら仇呼《かたきよ》ばわりは御免下されい。第一毛頭覚え
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