の眼を抜く以上だ」
「あんたが昨夜《ゆうべ》の中《うち》に犯人と後家さんの写真を探して来とるとこの記事は満点じゃったが……」
吾輩は唖然となった。吾輩以上のモノスゴイ、インチキ記事の名人に、生れて初めてお眼にかかったので……。
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真実百%の与太
今朝《けさ》の玄洋日報紙を見ると社会面に一大事件が持上っている。
低い、うねりを打ったような丘陵続きの海岸に近く五|艘《そう》の水雷駆逐艇が、重なり合って碇泊している。その横に三号活字でベタベタと「呉淞《ウースン》に着いた分捕《ぶんどり》、独逸《ドイツ》潜水艇」という説明が付いている。
「馬鹿ッ」と思わず口走りながら吾輩は、寝床の中から飛び起きた。「頓間《とんま》。間抜け。トンチキ。これあ潜水艇じゃねえやい……何という恥曝《はじさら》しだ。これあ……」
大正の三四年頃だったか東京の某新聞社に居た時分に、桜島の大噴火、鹿児島市の大混乱と題して吉原の火事の写真を使ったことがある。その逃げ迷っている群集の足下に「吉原町」と一パイに書いた手|提灯《ぢょうちん》が転っているのを、後から気が付いて冷汗を流した事があるがソレ以来の……イヤ、それ以上の大失敗だ。あんまりハッキリし過ぎているので頬返《ほおがえ》しが付かない。
間違いのソモソモは昨夜の午後四時頃の事だ。警察|種《だね》の記事を仕舞《しま》って帰りかけようとしている吾輩の処へ、眼をショボショボさせながら山羊髯編輯長がスリ寄って来た。
「君は写真の補筆が出来ますか」
断っておくがこの時の吾輩は最早《もはや》、正式に入社していて、社長以下小使に到るまで顔が通っている。行く処、可ならざるなき吾輩の活躍ぶりに皆、舌を捲いているところだった。だから、もしやと思って山羊髯がコンナ事を頼みに来たのだろう。吾輩がうなずいて見せると山羊髯がモウ一度、眼をショボショボさした。
「それではこれを一つ直してくれませんか。上海《シャンハイ》○○新聞の切抜ですが。タテ二段ぐらいに縮めます。向うの海岸の形が大切ですからね。ヒッヒッ」
受取ったのは極めて紙質の悪い新聞ザラに、目の荒いボヤケた六十線の銅版を、汚れたインキで印刷した切抜写真で、薄ボンヤリした雲みたような陸線のコチラ側に筏《いかだ》みたような船が五艘かかっている。どうやら水雷艇らしい恰好だ。上海○○新聞というのは最低級の邦字新聞と聞いたが、成る程、汚い紙面だ……なぞと思い思い、給仕に十銭のチャイニーズ・ホワイトのチューブを買って来さした。写真室に在る日本の水雷艇の写真と引合わせながら一生懸命に腕を揮《ふる》って、十銭の水彩顔料と、墨汁を塗りこくった。ところで、それから今一度、山羊髯に見せればよかったのだが、早く帰りたかったものだから、
「銅版屋へ廻わしてもいいですか」
と怒鳴ったら朝刊の記事を直していた山羊髯が、手軽くうなずいた。そこで補筆価値百二十パーセントの堂々たる日章旗を翻した司令塔、信号マスト、水雷発射管、速射砲の設備整然たる五百|噸《トン》級、乃至《ないし》二百噸級の水雷駆逐艇が五艘、九十線の銅版キメ細やかに浮き出しているとは夢にも知らずに、山羊髯が「分捕潜水艇」の標題を附けた版下《はんした》の寸法書《すんぽうがき》を印刷部へまわしたものだろう。
近頃大評判の独逸《ドイツ》潜水艇の写真を、不思議に早く着いた上海○○新聞から切抜いて東京大阪の新聞をアッと云わせようという山羊髯の心算《つもり》だったのだろう。
「飛んでもない事をした。この新聞が佐世保へ廻わったらドンナに笑われるか……イヤ。大阪の新聞がドレ位腹を抱えるか。つまるところ、山羊髯と俺が同罪なんだ。チョットした不注意だったのだが。イヤ。ヒドイヒドイ」
そう考えるとスッカリ眼が醒《さ》めてしまったが、何だか社に出るのが気まりが悪いような気がした。何とかして記事で正誤、訂正するか、取消しにする方法は無いものかと考えたが、生憎《あいにく》な事に写真ばっかりは一度掲載したが最後、取返しが絶対につかない事を覚った。
弱ったな……と悲観しているところへ下宿の女将《かみさん》が、梯子段の下から顔を出した。
「羽束さん。もうお眼醒めだすな」
その櫛巻《くしま》きの肥っちょう面《づら》を見ると思い出した。この女将《かみさん》は吾輩に度々特種を提供している。
……巡礼|婆《ばばあ》の行倒おれ……
……近所のドクトルの淋病……
……タキシー屋の幽霊……
……町内の標札の紛失……
なぞ、なかなか面白いが、今朝《けさ》も何か、そんなニュースが這入《はい》ったらしい。吾輩は頭のフケを狂人《きちがい》のように掻きまわしながら起上った。
「何ですか。お神《かみ》さん。又事件ですかい」
女将《かみさん》は返事をする準備として、とりあえず取って付けたように魘《おび》えた顔をした。この辺には珍らしく眉を剃って鉄漿《おはぐろ》をつけているからトテモ珍妙だ。
「ヘエ。アナタ。向家《むかい》の煙草屋の二階だす。あの二階に下宿して御座った別嬪《べっぴん》さんなあ!」
「ウン。知ってるよ。二十二三の……」
「ヘエ。アナタ。あの人がカルモチンとかで自殺して御座るちうてアナタ……今朝……」
話の終らないうちに吾輩は猿股一つになって立上った。顔も何も洗わないまま洋服に手足を突込んでしまった。スウェターに首を突込んで、靴下を穿いて、帽子を引っ掴むと、梯子段の途中に引っかかっている女将の巨体を飛び越すようにして上《あが》り框《かまち》から半靴を突かけると表の往来……千代町《ちよまち》の電車通りに飛出した。
「まあ。早さなあ。消防のごたる」
と女将が感心している間《ま》に、モウ五六人、人だかりのしている向家の煙草屋に駈込んだ。
いつも煙草を買うので新聞記者という事を知っていたのであろう。野次馬に覗かれないように表の板戸を卸《おろ》しかけていた博奕打《ばくちうち》の藤六という宿屋の親仁《おやじ》がヒョコリと頭を下げて通してくれた。こっちも頭を下げながら出会い頭《がしら》に問うた。
「どうしたんですか」
親仁《おやじ》は妙に笑いながら表の戸をピッタリと閉め切った。上り框に腰をかけて声を潜めた。
二階の女は此村《このむら》ヨリ子という別嬪《べっぴん》で二個月前から下宿している。毎日十時頃に起きて、朝湯に這入って、念入りにお化粧をしてから十二時頃飯を食う。それから午後の三時頃になって綺麗に着飾ってどこかへ出かけて、夜の十一時か十二時頃帰って来て、自分で表の入口の締りをして寝るだけが仕事で、宿主の方ではまことに手数がかからない。下宿料もキチンキチンと入れる。今朝はどこかへ奉公のお眼見得《めみえ》に行くのだから早く起してくれと云って寝たが、十時頃まで起きないから、起しに行ってみると、イクラゆすぶっても眼を開けない。どうも様子が怪訝《おか》しいようだから、近所の医者を呼んで来て診《み》てもらったら、睡り薬を服《の》み過ぎているらしい。自殺かも知れないという話。万一自殺となると身よりタヨリの事はヨリ子から一つも聞いていないし、第一何の商売だか全くわからないから、今も巡査に聞かれて困ったところだと云う。
「ナアンダイ。お爺《とっ》さん。胡麻化《ごまか》しちゃイケないぜ。大抵わかってんだろ」
と一本|啖《く》らわしてやったら親仁が禿頭《はげあたま》を掻いた。
「エヘヘ。済みません。実は新聞に書かれちゃ困りますけに……レコだすけにな」
と小指を出して見せた。
「ヘエ。旦那は誰ですか」
親仁は又頭を掻いた。両手を膝に置いて頭を一つ下げた。
「そ……そいつは御勘弁下さい。……わたくしが、お世話しましたとですけに……」
「アハハ」と今度は吾輩が頭を掻いたが、親仁《おやじ》がちょっと両手を合わせて拝む真似をしたのを見ると可哀相になった。
「失敬失敬。それじゃ本人が死んだらスッカリ事情を話して下さいよ。決してこちらさんに御迷惑になるような事は書きませんから……」
親仁は苦笑して首肯《うなず》いた。その首肯き方で女の旦那というのはヨッポド大物らしいと思った。
二階へ上ってみると六畳ばかりの床の間附の部屋の中央《まんなか》に、花模様のメリンスの布団を敷いて、半裸体の女が大の字に寝かしてある。
その枕元に近所の医者……下宿の女将《おかみ》の報告に係る淋病のドクトルがタッタ一人坐って胃洗滌をやっている。
金盥《かなだらい》の中を覗くとドロドロの飯粒と、糸蒟蒻《いとこんにゃく》が漂っている中に白い錠剤みたようなもののフヤケたのがフワフワと浮いている。
患者は、
「ガワガワ……グルグル……ゴロゴロゴロ……」
と二重|腮《あご》をシャクリながら嘔《は》いているが、そのまま手足を長々と投出しながらスヤスヤと睡《ねむ》っている。
変テコな状態だが、まだ相当麻酔しているのであろう。
流行の庇髪《ひさしがみ》に真物《ほんもの》の真珠入の鼈甲櫛《べっこうぐし》、一重|瞼《まぶた》の下膨《しもぶく》れ。年の頃は二十二三であろうか。
顔から肩から胸元……背中はわからないが手首、足首まで真白に化粧して頬紅、口紅をさしているが、その色っぽい事。正に熟《う》れ切った、女盛りの肉体美だ。
吾輩が上って行くと、ドクトル淋病氏が、ハッとしたらしい。
吾輩が女のオデコの上に名刺を置いて見せたらドク・リン氏が叮嚀に頭を下げて説明してくれた。
好人物らしい微笑を浮かべて、
「私はタッタ今来たんです。広矢《ひろや》と申します。今朝早く、夜中に、かなり多量のカルモチンを嚥下《えんか》したらしいですが、胃洗滌をやってみたら残りを出してしまいました。消化不良らしいですから大抵助かるでしょう」
「警察から誰か来ましたか」
「千代町の派出所から巡査が一人来ておりましたが大丈夫助かると云ったら、そのまま帰って行きました」
「成る程。死なない限り用は無いと思ったのでしょう」
と云ううちに吾輩は、そこいらを探しまわったが、成る程|遺書《かきおき》らしいものはどこにも無い。女の袂《たもと》から額縁の裏まで引っくり返してみたが、出て来たものは袂糞《たもとくそ》とホコリばかりだ。ただ机の曳出《ひきだし》から分厚い強度の近眼鏡と、カルモチンと同じ位のカスカラ錠の瓶を探し出しただけであった。そんな物を探しているうち偶然に、机の前に投出してある女の足袋《たび》を踏付けると、踵《かかと》の処が馬鹿に固いのに気が付いた。
覗いてみると、背が高く見えるように女が入れるファインゴムだ。
吾輩はソレを抓《つま》み上げて広矢氏に見せた。
「この足袋は貴方《あなた》が脱がせたんですね」
広矢氏は海老《えび》のように赤くなって弁解した。
「そうです。足が冷えると見えて、穿いて寝てたんです。こんな場合には、全身の束縛を解くのが、手当の第一ですからね」
そう云い云いドク・リン氏は新しい白襦袢《しろじゅばん》と、小浜の長襦袢をキチンと着せて、博多織の伊達巻を巻付けはじめた。
「アハハ。これあ自殺じゃありませんぜ」
「エッ。どうして……わかりますか」
ドクトルが眼を丸くして振返った。
「カスカラ錠は下剤じゃないですか」
「そうです。緩下剤《かんげざい》です」
「ドレぐらい服《の》めば利きますか」
「そうですね。人に依りますが少い時で×粒ぐらい。多い人は×××粒ぐらい用いましょうな」
「カルモチンをソレ位|服《の》めば死にますか」
「死にませんなあ。ちょうどコレ位の睡り加減でしょうなあ。人にもよりますが」
「この女は近眼ですね」
「どうしてわかります」
「ここに眼鏡があります。近眼だもんですからカスカラとカルモチンを間違えて服《の》んだんですね。朝寝の人間には常習便秘が多いんですから……」
「……ハハア……」
と医者が感心してタメ息を吐《つ》いた。気味わるそうな顔をして吾輩を見上げた。
「まだ、なかなか醒めないでしょうね」
ドク・リン氏はうなずいた。……というよりも吾輩に圧倒されたように頭を下げた。
「
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