山羊髯編輯長
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)汚穢《きたな》い
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)二階の窓|硝子《ガラス》が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)山羊髯のおやじ[#「おやじ」に傍点]は
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[#本文中、新聞記事の見出しを模した箇所では、入力者注で文字の大きさを表した。大きさの比率は、見出し文字:小見出し文字:本文の文字=5:4:3]
女 箱 師
一
「玄洋日報社」と筆太に書いた、真黒けな松板の看板を発見した吾輩はガッカリしてしまった。コンナ汚穢《きたな》い新聞社に俺は這入《はい》るのかと思って……。
古腐ったバラック式二階建に塗った青い安ペンキがボロボロに剥《は》げチョロケている。四つしかない二階の窓|硝子《ガラス》が新聞紙の膏薬《こうやく》だらけだ。右手に在る一間幅ぐらいの開《あ》けっ放しの入口が発送口だろう。紙屑だの縄切れだのが一パイに散らかっている。
その前に掲示してある八|頁《ページ》の新聞を見ただけで吾輩は読む気がしなくなった。旧五号の薄汚れた潰れ活字で、日清戦争頃の号外でも見るようだ。コンナ新聞が、まだ日本に残っているのかと思われる位だ。
しかし吾輩自身の姿を振り返ってみるとアンマリ大きな事も云えなかった。
東京一、日本一の東洋時報社で、給仕からタタキ上げた腕ッコキの新聞記者といえば、チョット立派に聞こえるかも知れないが、それがアンマリ腕ッコキ過ぎたのだろう。新聞記者としてアラン限りの悪い事を為尽《しつく》した揚句《あげく》、大正十一年の下半期に到って、東京中の新聞社からボイコットを喰った上に、警察という警察、下宿という下宿からお構いを蒙《こうむ》って逃げて来たんだから大したもんだ。モウ十一月というのに紺サージの合服と、汽車の中で拾った紅葉材《もみじざい》のステッキ一本フラットというんだから蟇口《がまぐち》の中味は説明に及ぶまい。タッタ今博多駅で赤い切符を駅員に渡したトタンに木から落ちた猿みたいな悲哀を感じて来た吾輩だ。三流か四流か知らないが、こんなボロ新聞社にでも押し込まなければ、押し込みどころのない身体《からだ》だ。
「ここを押……」と書いた白紙の下半分が「……して下さい」と一所《いっしょ》に切れ落ちている扉《ドア》を押すと、イキナリ販売兼、会計部らしい広間に這入った。しかし人間は一人も居ない。マン中の鉄火鉢の前に椅子を引き寄せた小使らしい禿頭《はげあたま》が、長閑《のどか》に煙草を燻《くゆ》らしているだけだ。
「きょうはお休みなんですか」
と少々面喰った顔で吾輩が尋ねると、禿頭《はげあたま》の小使が悠々と鉈豆煙管《なたまめぎせる》をハタイた。
「イイエ。販売部は正午《おひる》切りであすが……何か用であすな……」
と云い云い如何にも横柄《おうへい》な態度で、自分の背後の古ぼけたボンボン時計を見た。二時半をすこし廻わっている。少々心細くなって来た。
「アノ編輯長は居られるでしょうか」
「編輯長チウト……津守《つもり》さんだすな」
「ええ。そうです。そのツモリ先生に一寸《ちょっと》お眼にかかりたいんですが……」
「何の用であすか」
「新聞記事の事ですが」
「……………………………」
小使は中々腰を上げない。苦り切った表情で又も一服詰めて悠々と鉄火鉢の中に突込んだ。吾輩は心細いのを通り越して腹が立って来た。コンナケチな新聞社にコンナ図々しい小使が居る。まさか社長が化けているのじゃあるまいに……と思いながら……。
するとそのうちに小使がヤットコサと腰を上げた。煙管を腹がけの丼《どんぶり》に落し込みながら、悠々と俺の前に立塞がって、真黒な右手をニューと差し出した。俺は面喰って後退《あとずさ》りした。
「何ですか……」
「名刺をば……出しなさい」
吾輩は街頭強盗《ホールドアップ》に出会った恰好で、恐る恐る名刺を渡した。「中央毎夕新聞編輯部|羽束《はつか》友一」と印刷した最後の一枚を……。
小使は、この名刺をギューと握り込んだまま、吾輩の直ぐ横に在る真暗い、泥だらけの階段を上って行った。その一足|毎《ごと》に、そこいら中がギシリギシリと鳴って、頭の上の天井の隙間からポロポロとホコリが落ちて来たのにはイヨイヨ驚いた。
たまらない不安な気持で待っているうちに、階段の上から大きな声がした。
「コチラへ上って来なさっせえ」
どこの階段でも一気に駈け上るのが癖になっている吾輩もこの時ばかりは気が引けた。匐《は》い上るような恰好で、杖を突張り突張り段々を踏んだ。スッカリ毒気を抜かれていたばかりじゃない。古い板階段の一つ一つが、磨り残ってビィヨンビィヨンしている上に、下向きに反《そ》り返っているので、ウッカリすると辷《すべ》り落ちそうな気がしたからだ。今朝《けさ》早く、汽車|弁当《べん》を一つ喰った切り、何も腹に入れていなかったせいかも知れないが……。
ヤットの思いで上に登り付くと、小使が仁王立ちになって待っていた。それでも最上級の敬語であったろう……、
「ココへ這入って待って居《お》んなさい。今津守さんが見えますけにナ……」
と云うと、又もドシンドシンと雷鳴を轟《とどろ》かしながら暗い階段を降りて行った。
……又、心細くなりそうだな……と思い思い出来るだけ心細くならないように……イヤ……出来るだけ威勢よく見せかけるために部屋の中を見まわした。
多分、応接室のつもりだろう。穴だらけの青|羅紗《ラシャ》を掛けた丸|卓子《テーブル》の左右に、歪《ゆが》んだ椅子がタッタ二つ置いてある。右手の新聞|原紙《ゲラ》で貼り詰めた壁の上に「南船北馬……朴泳孝《ぼくえいこう》」と書いた大額が煤《すす》け返っている。それに向い合《あい》に明治十二年発行の「曙《あけぼの》新聞」の四|頁《ページ》が、硝子《ガラス》枠に入れて掛けてあるのはチョット珍らしかった。泥だらけの床の片隅に、古い銅版がガチャガチャと山積してあるのは、地金屋《じがねや》にでも売るつもりであろうか。……そんなものを見まわしているうちに思いがけなく腹がグーグーと鳴り出してタマラない空腹を感じ出した。そこで吾輩は意気地なく杖を突張って我慢しようとしているところへ、うしろの方に人の気はいがしたので、ビックリして振り向いてみると、すぐに奇妙な恰好をした小男と顔を合わせた。
背の高さは五尺足らず……ちょっと一寸坊といった感じである。年は四十と七十の間ぐらいであろうか。色が真黒で、糸のように痩せこけているので見当が付きにくい。白髪頭を五|分刈《ぶがり》にして分厚い近眼鏡をかけて、顎の下に黄色い細長い山羊髯《やぎひげ》をチョッピリと生やしている。それが灰色の郡山の羽織袴に、白|足袋《たび》に竹の雪隠草履《せっちんぞうり》という、大道易者ソックリの扮装で、吾輩の直ぐ背後《うしろ》に突立っていたんだからギョッとさせられた。今の腹の音を聞かれたんじゃないかと思って……。
その山羊髯の一寸坊|爺《じい》は、身体《からだ》に釣合った蚊の泣くような声を出した。
「お待たせしました。わたし……津守です……」
と云い云い傍《そば》の椅子を指したので、イキナリ腰をかけようとすると忽《たちま》ち引っくり返りそうになったから、慌てて両足を突張った。椅子の足がみんなグラグラになっているのだ。吾輩は下ッ腹を凹《へこ》ましてステッキを突張った。
山羊髯の爺《おやじ》は、その吾輩の真正面に、丸|卓子《テーブル》を隔ててチョコナンと尻を卸《おろ》した。向側《むかいがわ》の椅子も相当歪んでいるようであるが、引っくり返らないのは身体《からだ》が軽いせいであろう。その貧弱な事、踏台にハタキを立てかけた位にしか見えない。コンナ奴の下になって働らくのか……オヤオヤと思いながらも吾輩は、絶体絶命の雄弁を揮《ふる》って採用方を願い出た。今までの事を残らずブチ撒《ま》けてしまった。
「……だからモウすっかり屁古垂《へこた》れちゃったんです。編輯の給仕から、速記者から、社会部の外交まで通過して来るうちに、悪い事のアラン限りを遣り尽して来たんです。そうしてモウすっかり前非後悔しちゃったんです。これから一つ地道《じみち》になって働らいてみようと思いましてね……どんなボロ新聞社でもいいから……イヤナニその……何です……僕を買ってくれる人の下ならドンナ仕事でもいい……月給なんかイクラでもいい……やってみようと思ってお訪ねした訳なんですが……東京中の新聞社と警察と下宿屋連中にお構いを喰っちゃったんで行く処が無いんです……今年二十四なんですが……いかがでしょうか……」
そう云う吾輩の顔を山羊髯はマジリマジリと見ていた。吾輩が臓腑《はらわた》のドン底の屁《へ》ッ滓《かす》の出るところまで饒舌《しゃべ》り尽してしまっても、わかったのか、わからないのかマルッキリ見当が付かない。朝鮮渡来の木像じみた表情で、眼をショボショボさせながら、片手で吾輩の名刺をヒネクリまわしているキリである。
吾輩もその顔を見詰めて眼をショボショボさせた。真似をしたんじゃない。気味が悪くなって来たからだ。同時に中風病《ちゅうぶうや》みみたような椅子の上に、中腰になっている吾輩の両脚が痺《しび》れそうになって来た。汚れた名刺を取返して、諦らめて帰ろうかと思い思い、尻をモジモジさせていると、又も下ッ腹が大きな音を立ててグーグーと鳴った。今度こそ慥《たし》かに聞こえたに違いない。
吾輩は心細いのを通越して涙ぐましくなった。見得も栄《は》えもなくステッキの前にうなだれてしまった。この間、酔っ払った勢いでナグリ倒した救世軍士官の顔が、眼の前にチラ付いて来た。
「……ヒッ……ヒッ……ヒ……」
山羊髯が突然に妙な声を出したので、吾輩はビックリして顔を上げた。まるで山羊のような声だと思いながら……その時に山羊髯はヤッと咽喉《のど》に絡まった痰《たん》を嚥《の》み下して、蚊の啼くような声を切れ切れに出した。
「……まあ……何か……記事になりそうな話を……一つ……取って来て御覧なさい……ヒッ……ヒッ……ヒヒ……ゴロゴロゴロ……」
と云ううちに又一つ痰《たん》を嚥《の》み下して眼をショボショボさした。生きている甲斐も御座いません……と云いたいような表情をしたと思うと、そのままスウスウと煙のように立上って廊下に出た。廊下の向うの、板壁の向うの編輯室らしい方向へ消えて行った。右足が曲っているらしく非道《ひど》いビッコを引きながら……。
吾輩は呆気《あっけ》に取られてその背後《うしろすがた》を見送った。頭の芯《しん》がジイーンと鳴り出したような気がした。
「……山羊髯のオジサン。ちょっと待って下さい。実はその現在一文もお金が無いのです。僕を採用するならするでイクラカ前貸しして頂きたいのですが」
と呼びかける勇気も無くしてしまったまま杖に縋《すが》ってヒョロヒョロと立ち上った。
コンナ編輯長に出会った事は今までに一度も無い。
コンナ屁ッポコ新聞社に跼《かが》まっているヨボヨボの編輯長が、吾輩のモノスゴイ、スバラシイ性格や技能をタッタ一眼で見貫《みぬ》き得る筈は絶対に無い訳なのに、何一つ尋ねるでもなければ、社としての希望を述べるでもない。おまけに採用するつもりか、そうでないのかテンデ見当の付かない事をタッタ一言、云いっ放しただけで、ビッコ引き引き引上げるなんて、無責任なのか、乱暴なのか、礼儀を知らないのか、それとも吾輩の事を同業者仲間の誰からか聞いて知っているのか……又は新聞記者を鉛筆|担《かつ》いだ木ッ葉職人同然に心得ているのか……何が何だか見当が付かない……とに角にも編輯長をつとめている以上キチガイじゃないと思うが……。
そんな事を考えてボンヤリ突立っているうちに編輯室の方向から電話にかかっている速記者らしい声が聞こえて来た。
「……何だア……武雄から急報……何だア……犯人は何だア……税関……税関がどうしたん
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