何時間ぐらい睡《ねむ》るでしょうか」
「わかりませんねえ。夕方までぐらい睡るかも知れません」
「助かりますか」
「大抵助かります」
「ハハア……そこんところを一つ、まだ助かるか助からぬか、わからない事にして書きたいですが、含んでおいてくれませんか。そう書かないと新聞記事になりませんから……」
 ドク・リン氏は眼をパチパチさせた。妙な顔をして不承不承にうなずいた。大して事実を偽る訳ではないし、吾輩に痛いところを見られているもんだから余儀なく承知したのだろう。
 押入から布団をモウ一枚出して掛けてやりながら考えた。何とかして女の旦那を探し出す工夫は無いか。下宿の親仁《おやじ》は遊び人だから滅多《めった》に口を割る気遣いが無いし、ドク・リン氏だって知らないにきまっている。身のまわりのものに見当をつける品物も無いし、手紙なんかも在りそうにないし……ハテ。困ったな。相手の旦那を見付けて「彼女自殺の感想談」を一席弁じさせなくちゃ、記事にならないんだが……と頻《しき》りに首をひねっているところへ、下から煙草店に坐っている小娘が上って来た。藤六の娘らしく鼻っ株が大きい。
「あの……お迎えの俥《くるま》が参りましたが」
「誰をお迎えに……」
「此村さんをお迎えと申しまして……」
「どこから来たんだい」
「存じませんが……」
「お父《とっ》つあんはどこへ行ったんだい」
「今ちょっとお電話をかけに……」
「立派な俥かい」
「ハイ。お抱えらしい御紋付の……」
「占《し》めたっ」
 と云うなり吾輩は、階子段を二股に飛び降りて靴を穿いた。表に出るなり俥夫《しゃふ》に云った。
「急いで僕を、お邸まで乗せてってくれ給え。此村さんが自殺してんだから」
 面喰《めんくら》った俥屋が駈け出すと、吾輩は威勢よく仔熊の皮の中に反《そ》り返った。……ヘン。どんなもんだい。これだから新聞記者が止められないんだ……と云いたいくらいだ。おまけにどこへ連れて行かれるんだかテンキリわからないんだからイヨイヨ以て痛快だ。

 石堂橋を渡って電車通を東中洲、西中洲を抜けて春吉《はるよし》へ曲り込んで、渡辺通りから郊外へ出たと思うと、驚ろく勿《なか》れ、九州の炭坑王と呼ばれた、安島子爵家の門内に走り込んだ。
 流石《さすが》の吾輩も……コレハ……と驚いた。何かの間違いじゃないかと思ったが、まさかに俥《くるま》から飛降りて逃出す訳にも行かない。……ええ糞。どうでもなれ……と思って玄関に立つと俥夫が呼鈴《よびりん》を押してくれた。出て来た小間使に名刺を渡して、案内さるるままに美事な応接間に通った。まるでアラビヤン・ナイトだ。
 どうも美事なのに驚いた。青豆色《フーカスグリン》の天井。古黄金色《こもんいろ》の四壁。五色七彩の支那|絨氈《じゅうたん》。蛇紋石《じゃもんせき》の大暖炉。その上に掛かった英国風の大風景画。グランドピアノ。紫檀《したん》の茶棚。螺鈿《らでん》の大|卓子《テーブル》。ロココ風のクリスタル・シャンデリヤ。南洋材のキャビネット。黄緞子《きどんす》の長椅子《ソーファ》。安楽椅子《イージイチェア》。白麻ドロン・ウォークの窓掛などをキョロキョロと見まわしているうちに、フト傍《そば》の飾戸棚《キャビネット》の横に附いている小さな鏡の中に自分の顔を発見してギョッとした。頭髪《あたま》がまるで煙突の掃除棒だ。おまけに眼鏡を忘れて来ている面付《つらつき》のまずい事。分捕《ぶんどり》スコップに洋服を着せたってモウすこしは立派に見えるだろう。洗い直して来ようかしらんと思って、洗面所らしい処を見まわしているうちに背後の扉が音もなく開《あ》いた。スバラシイ幻影が音もなく辷《すべ》り込んで来て、しなやかに吾輩の前に立止まった。香水の匂いの棚引く中に恭《うやうや》しく頭を下げた。
 何という生地《きじ》かわからぬ金線入《きんせんいり》、刺繍裾模様の訪問着に金紗《きんしゃ》の黒紋付、水々しい大丸髷《おおまるまげ》だ。上げた顔を見ると夢二式の大きな眼。小さな唇。卵型の腮《あご》。とても気品のある貴婦人だ。年齢なんかわからない位だ。
 吾輩は二重三重に面喰って頭を下げた。
「僕は……私は……只今名刺を差上げました玄洋日報社の羽束という者ですが」
「わたくしは安島二郎の家内で御座います」
「あ……そうですか」
 やっとわかった。安島二郎というのは当主、安島一郎子爵の弟で、現在、鎮西《ちんぜい》電力会社の重役をしている。有名な道楽者だ。兄の炭坑王の家《うち》に同居していると見える。
「……あの……何か御用で……」
 そういう地声が、すこしシャ嗄《が》れているところをみると、どうやらこの夫人の素性がわかるようだ。無論、風邪を引いてるんじゃあるまい。
「……実は……その……」
 と吾輩は眼を白黒した。来るんじゃなかったかな……と思った。元来、何しにここへ来たんだか吾輩自身にもわからないので、いわば好奇心に駆られて来たに過ぎない。とりあえずこれから用向きを考え出さなければならないのだが、コンナ婦人に改まられると、考えて来た用向きでも引込んでしまうのが吾々、男性の弱点である。
「只今。千代町の藤六|爺《じい》から電話がまいりましたが……生憎《あいにく》途中で切れましたが……」
 ああ助かったと吾輩は思った。チャンスチャンス……。
「……あの娘がどうか致しましたので……」
「ヘエ。実はその……此村……ヨリ子さんが……」
「どうしたんですか一体……」
 急《せ》き込んだ夫人の語気が、だんだんお里をあらわして来た。吾輩は思い切って打明けた。
「実は……その自殺未遂で……」
「エッ。自殺……」
 この時の夫人の驚きようの美くしかったこと……市川|松蔦《しょうちょう》だって、こうは行くまい。細長い三日月|眉《まゆ》の下で、大きな瞳をゆっくりとパチパチさした。唇を半分開いてワナワナと震わした。白い両手を胸の上でシッカリと握り合わしてヨロヨロと背後《うしろ》へよろめいた。たしかに西洋映画の影響だ……と思ううちに、美しい幻影は、そのまま扉《ドア》を開いてスウと応接間の外へ辷り出た。
 ……が間もなくその幻影が、黒ずくめの風采堂々たる紳士の手を引いて這入って来た。四十四五の新調モーニングの白金《プラチナ》鎖だ。新聞で知っている電力重役、安島二郎氏だ。
 二人は吾輩の眼の前に立並んで威厳を正した。瓦斯器修繕屋《ガスなおしや》然たる吾輩を二人で、マジリマジリと見上げ見下《みおろ》し初めた。何だか新派悲劇じみて来たようだ。
 手に持った吾輩の名刺をチラリと見た安島二郎氏はブッスリと唇を動かした。
「私は安島二郎です。何か……その……此村とかいう娘が自殺したと云わるるのですか」
「そうです。あの下宿の二階でカルモチンを服《の》んで、目下手当中です。まだ生死不明ですが、とりあえず、お知らせに……」
 二郎氏は今一度、吾輩を見上げ見下《みおろ》した。新聞記者の機敏なのに驚いたらしい。
「ハハア。どうして私の家《うち》と関係がある事が、おわかりになりましたかな」
「お迎えの人力車が参りましたので、それに乗って参りました」
 夫婦は顔を見合わせた。今度は図々しいのに驚いたらしい。
 二郎氏が貴族風に肩を一つゆすり上げた。苦り切って夫人を睨み付けた。
「だから云わん事《こっ》ちゃない。余計な事をするもんじゃから……」
「イヤ。どうも済みません。その俥《くるま》を利用した僕が悪いんです」
「イイエ。貴方がお悪いのじゃ御座いません。主人が悪いのです」
「コレ。余計な事を……」
「イイエ……」
 夫人の眼がギリギリと釣上った。純然たる新派悲劇式の、キチンとした立姿になって主人と吾輩を等分に見比べた。鬢《びん》の毛が二三本ホツレかかってトテモ凄《すご》い。
 主人の二郎氏が吾輩にチラチラと眼くばせをした。早く出て行ってくれ……と云いたい意味がよくわかったが、吾輩は出て行かなかった。何だかわからないがトテモ面白かったので……。
 夫人は人形のように冷静に、唇を動かした。
「イイエ。申します。どうぞ新聞に書いて下さい。その方がいいのですから……」
 見る見る血の気《け》を喪った二郎氏は、万事休す……といった風に頭を抱えてドッカリと安楽椅子《イージイチェア》の中へ沈み込んだ。どうやらこの夫人のヒステリーは天下無敵のシロモノらしい。
 冷やかに主人の態度をかえりみた夫人は突立ったまま、両手を静かに揉《も》み合わせた。冴え切った微笑を含み含み天下無敵の科白《せりふ》を並べ初めた。
「わたくし、ちゃんと存じております。……あの此村ヨリ子と申します娘は鎮西電力のタイピストで、この安島の妾《めかけ》になっていた女で御座います。……安島の浮気はいつもの事で、相手も数限りない事で御座いますから、わたくしは何も……申しませんでしたけれども、主人が、あんまり見瘻《みすぼ》らしい処へ通いますから、家柄にも拘わると思いまして、それほど気に入った女《ひと》なら、当宅《うち》へ引取って召使ってはどうかと勧めましたけれども、安島は、そんな事はない。アレは妾でも何でもない。気の毒な孤児《みなしご》だから、人から頼まれて世話しているだけだと申します。タイピストを辞《や》めさせてまで世話する筋合いがドコに在るか存じませんが……ホホ……それで、わたくしは決心を致しまして、あの宿の主人と相談を致しまして、ヨリ子を今朝《けさ》から当宅《たく》へ引取って、わたくしの側で召使う事に致しましたが、あまり来方《きかた》が遅う御座いましたので、当宅《こちら》の自用車を迎えに出したので御座います。これは妻として主人の名誉を大切に致しますために、取計《とりはか》らいました事で、決して余計な事を致したおぼえ[#「おぼえ」に傍点]は御座いません」
 吾輩は恭《うやうや》しく夫人の前に頭を下げた。安島二郎氏はイヨイヨ椅子の中へ縮こまった。
「……多分……キット……主人がヨリ子に申し含めたので御座いましょう。ヨリ子は、それを信じて覚悟をきめたので御座いましょう。どんな事があっても安島家へ来てはいけない。奥さんに殺されるから……とか何とか……」
「……と……飛んでもない。そんな馬鹿な事を俺が云うか……そんな事……」
 安島二郎氏が突然に歪《ゆが》んだ顔を上げた。中腰になって両手を伸ばした。両袖のカフス・ボタンからダイヤの光りがギラギラと迸《ほとばし》った。
 夫人は冷然と尻目に見た。
「ヨリ子のような卑しい女が、何で自殺しましょう。貴方のお言葉を信ずればこそです。貴方に生涯を捧げる純な気持があればこそです。……貴方は安島一家の呪いの悪魔です。お兄様や、お姉様がお可哀そうです」
「コレッ。コレ……余計な事を……」
「申します。安島家のために、すべてを犠牲にして申します。わたくしはドウセ芸人上りの卑しい女です。けれども貴方のような血も涙も無い人間とは違います。……どうぞ新聞に書いて下さい。そうすれば主人は破滅します。その方が安島家にとってはいいのです。どうせ一度はここまで来る筈ですから……チット荒療治ですけど……ホホホ……」
「……イ……イケナイ。オ……俺には血もあれば……涙もあるんだ。あり過ぎるんだ……」
「オホホホホホ。ハハハハハハ……。血もあり涙もあり過ぎる方なら何故《なぜ》すぐに、あのヨリ子の処へ飛んで入らっしゃらないのですか。死にかけているのに……ネエ。そうでしょう。オホホ……」
 二郎氏は立上って来た。素焼のように白い、剛《こ》わばった顔に、絶体絶命の血走った眼が二つ爛々と輝いている。
「……馬鹿……ソレどころじゃないんだ。安島家の名誉を守らなければ……」
「……白々しい。名誉を思う人が、どうして、あんな女に手をかけたんです。早くヨリ子の処へ行ってらっしゃい……何を愚図愚図……」
 夫人に突き飛ばされて、よろめきながら二郎氏はポケットから一掴みの札束を出した。吾輩の鼻の先に突付けた。
「君は帰り給え。帰ってくれ給え。何でもない事だから……これを遣るから……サア……」
 吾輩は後退《あとじさ》りをした。

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