ねえ。あの隣家《となり》の屋敷を買いたいと思って、今日覗いて来たんだがね。持主は誰だい……今のところ」
「……ヘエ……あれはねえ……」
若い親方の顔色が、見る見る柔らいで来た。肩の下と両頬に赤味がポーッと復活して来る中《うち》に鋏がチャキチャキと動き出した。
「あれはですねえ。今んところあの一木ってえお爺さんの後家さんのものになっているんですがねえ。実はあっし[#「あっし」に傍点]頼まれているんですけども……」
「フウン。心安いのかい後家さんと……」
若い親方の顔が急に苦々しい、虫唾《むしず》の走りそうな恰好に歪《ゆが》んだ。同時にその眥《めじり》がスーッと切れ上って、云い知れぬ殺気を帯びた悪党|面《づら》に変った。
「いいえ。……その……別にソンナ訳じゃありませんけど、あの後家さんがツイこの間来ましてね。呉々《くれぐれ》もよろしく……買手があったら安く売りますからってね」
「フウン。君はそれじゃ、古くからここに居たんだね」
親方は白い眼尻でジロリと吾輩の顔を見た。不愉快そうに答えた。
「いいえ。ツイこの頃ここに来たんですけどう」
「いつからだい……」
ここまで尋ねて来るうちに吾輩はヤット気が付いた。どうも最前からの話ぶりが陰気臭い。怪訝《おか》しい怪訝しいと思ったが、この男の過去には何か暗いところがあるらしい。おまけに被害者の後家さんと懇意らしいところをみると、これは何かしら大きな手がかりになるかも知れない。相場が当った……とか何とか云っているがヒョッとすると……そう思うと吾輩の胸が又も、別の意味でドキンドキンとした。
しかし……それにしても迂濶《うっかり》した事は尋ねられない。何しろ相手は腕の冴えた職人に在り勝ちな一種特別の神経の持主だ。虫も殺さない優しい顔を一瞬間に老人の顔から、悪党|面《づら》へとクラリクラリ変化させる位カンの強い人間だから、万一、この男が事件に関係を持っているとすれば、既に今まで尋ねた事柄だけでも、尋ね過ぎる位、手厳しく突込んでいる筈だ。身に覚えのある人間なら、余程の自信が無い限り、トックの昔に感付いている筈だ。
況《いわ》んやその当の相手は、現在ドキドキと磨《と》ぎ澄ました大型の西洋|剃刀《かみそり》を持って、吾輩の咽喉《のど》の処を、ゾリゾリやっている。もしもこの男が、所謂「純粋犯罪」を遣りかねない種類の脳髄の持主で、吾輩に感付かれたと感付くと同時に、今が絶好のチャンスだ……気が付いたら最後、吾輩のグリグリの処あたりをブッツリと遣らないとは限らないだろう。そうなったら羽束友一、生年二十四歳……アアもスウもない運の尽きだろう。中途で警察の世話にならないように……と山羊髯が云ったのは、もしかするとここの事かも知れないぞ……人通りの無い淋しい横町だし、店には誰も居ないのだから……。そう気が付くと同時に吾輩は今一度、念入りにゾッとさせられた。名探偵|生命《いのち》がけの冒険とはこの事だと気が付いた。左右のお臀《しり》の下が一面にザラザラと粟立ったような気がした。
……しかし……と思い直しながら、吾輩は咳払いを一つした。若い親方がビックリして剃刀を引っこめた。
男は度胸だ。かよわい女だって荒波に潜って真珠を稼ぐ世の中だ。オマンマに有付《ありつ》くか、付かないかの境い目だ。行くところまで行ってみろ。こっちで気を付けて用心をしていたら、万一の場合でも怪我《けが》ぐらいで済むだろう。況《いわ》んや相手は蔭間《かげま》みたいなヘナヘナ男じゃないか。柔道こそ知らないが、スワとなったら、銀座界隈でチットばかり嫌がられて来たチョボ一だ。どうなるものか……と少々時代附きの覚悟を咄嗟《とっさ》の間にきめた。同時に、上等の廻転椅子に長くなって、シャボンの泡を頬ペタにくっ付けながら決死の覚悟をしている自分自身が可笑《おか》しくなったので、又一つ咳払いをした。不意を打たれた親方が又ビックリして手を離した。
「いつからここに引越して来たんだい」
「ヘエ。アト月《つき》の末からなんで……」
親方の返事は何気もなさそうだったが吾輩は取りあえず腹の中で凱歌をあげた。アト月の末といったら、ちょうど事件のホトボリが醒めかかった時分である。それだのに被害者の後家さんと識《し》り合いというのは、いよいよ怪しい。
「繁昌してるってね」
とウッカリ口を辷《すべ》らしてハッとした。近所の噂を探って来た事を疑われやしないかと思って……。しかし親方の返事は依然として何気もなかった。
「ヘエ……お蔭様で……」
「隣の家には火の玉が出るってえじゃないか」
「ヘエ……そ……そ……そんな噂で……」
「君。這入ってみたかい。隣の家に……」
「……いいえ。と……飛んでもない……」
「今時そんな馬鹿な話があるもんじゃない。ねえ親方……」
「まったくなんで。永らく空いてるもんですからね。そんな事を云うんでしょう」
「ウン。是非買いたいんだが、どうだい。坪十円ぐらいじゃどうだい。裏庭を入れて百坪ぐらいは有るだろう」
「そんなには御座んせん。六十五坪やっとなんで。裏庭の半分は他所《よそ》のなんで……」
「向うの駄菓子屋のかね」
「そうなんで……十円の六十五坪の六百五十円……じゃチョット後家さんが手離さないでしょ。建物を突込んで千円位でなくちゃ」
「坪当り十六円か。安くないなあ」
「相場だと二十四五円のところですが」
「しかし八釜《やかま》しい曰《いわ》く附の処だからな」
「旦那は御存じなんで……」
「知ってるとも……迷宮事件だろう……怨みの火の玉が出るってな無理もないやね」
吾輩の頸動脈の処から親方がソッと剃刀を引いた。頬を青白く緊張さしてゴックリと唾液《つば》を嚥《の》み込んだ。
吾輩は少々面白くなって来た。どうもこれが悪い癖なんだが……。
「ねえ。そうだろう。何の罪も無い、ただお金をポチポチ溜めて、お神さんを養生させるだけが楽しみといったような仏性《ほとけしょう》のお爺さんが、怨みも何も無い、思いがけない人間から、思いがけない非道《ひど》い殺され方をしたんだからね。殺されたッ……と思った一刹那の一念は、後を引くってえじゃないか」
親方が何気なく、剃刀を磨ぎに行った。吾輩は追いかけるように振返って問うた。
「君はドウ思うね。この犯人は……」
「……………」
親方は吾輩の質問を剃刀を磨ぐ音に紛らして返事をしなかった。しかしその一心に剃刀を磨ぐ振りをしている色悪《いろあく》ジミた横頬の冴えよう。……人間の顔というものは、心の置き方一つでこうも変るものかと思いながら鏡越しに凝視していた。そのうちに剃刀を磨ぎ澄まして神経を落付けて来たらしい親方が、さり気なく吾輩の背後に立ち廻わって剃刀を構えた。淋しい淋しい微笑を薄い唇に浮かべた。
吾輩は白い布片《きれ》の下で全身を緊張さした。両の拳を握り固めて、無念流の棄て構え……といった恰好に身構えたが、白い布片を剥《め》くったら、虚空を掴んで死にかけている人間の恰好に似ていたろう。コンナに真剣な気持で顔の手入れをしてもらった事は生れて初めてだ。
「モミ上《あげ》は短かく致しましょうか」
「普通《あたりまえ》にしてくれ給え。短かいのは亜米利加《アメリカ》帰りみたいでいけない」
「かしこまりました」
「僕は絶対に迷宮事件だと思うね。犯行の目的がわからないし、盗まれた品物も無い。女房は評判の堅造《かたぞう》で病身、本人も評判の仏性で、嚊《かかあ》孝行の耄碌爺《もうろくおやじ》となれあ、疑いをかけるところはどこにも無いだろう。要するにこれは何でもない突発事件だと思うね」
「ヘエ。突発事件……と……申しますと……」
「つまりこの犯人は、いい加減な通りがかりの奴で、最初から被害者を殺す量見なんか毛頭無かったんだ。仏惣兵衛の老爺《おやじ》がどこかに現金を溜め込んでいる位の事を、人の噂か何かで知っている程度の奴が、何の気も無く這入って来て、下駄を誂《あつら》えながらそこいらを見まわしているうちに、フイッと殺す気になったんじゃないかと思うんだがね。これで殴ってくれといわんばかりに鉄鎚《かなづち》を眼の前に投出して、電燈の下に赤いマン丸い頭をニュッと突出したもんだから、ツイフラフラッとその鉄鎚を引掴んで……」
「……………」
耳の附根の処をゾキゾキやっていた剃刀の音がモウ一度ソッと離れ退《の》いた。同時に吾輩のお尻から両|股《もも》にかけてゾーッと粟立って来た。見ると若い親方は、眼を真白くなる程|瞠《みは》って、鏡の中の吾輩の顔を凝視している。ピリピリと動く細い眉。キリキリと冴え上った眥《めじり》。歪《ゆが》み痙攣《ひきつ》った唇。……吾輩の耳の蔭でワナワナと震える剃刀……。
……これは不可《いけ》ない。大シクジリだ。何とかしてこの親方を安心させて、気を落付かせなければいけない。薬がチット利き過ぎるようだ。このまま表へ飛出して行衛《ゆくえ》を晦《くら》まされたりしては面倒だ。
「アハアハアハ。どうだい親方。驚いたかい。俺あタッタ今行って現場《げんじょう》の模様を見て考えて来たんだ。何一つ盗まれていない原因もハッキリとわかったんだ。殺《や》ってしまってから急に恐ろしくなって逃げ出したものに違いないんだからね」
「……………」
「つまりアンナ空屋の中にタッタ一人で住んでいた禿頭の老爺《おやじ》が悪いという事になるんだ。迷宮事件を作るために居たようなもんだ。ねえ君。そうだろう……僕は犯人に同情するよ」
「そうですか……ネエ……ヘエ――ッ」
と若い親方が五尺ばかりの長さの溜息を吐《つ》いた。衷心《ちゅうしん》から感心してしまったかのように……。
「……おどろきましたねえ。旦那のアタマの良いのには……」
「ナアニ。外国の犯罪記録を調べてみるとコレ位の事件はザラに出て来るよ。山の中の別荘で寝しなに、可愛がって頂戴と云った女を急に殺してみたくなったり、霧の深い晩に人を撃ってみたくなってピストルを懐《ふところ》にして出かけたりするのと、おんなじ犯罪の愛好心理だ。所謂《いわゆる》、純粋犯罪というのとおんなじ心理状態が、この事件の核心になっていると思うんだ。そんな人間が都会に住んでいる頭のいい学者とか、腕の冴えた技術家とかいうものの中からヒョイヒョイ飛出す事がある……と横文字の本に書いてあるんだ。つまり文化意識の行き詰まりから生まれた野蛮心理だね」
「ヘエエ。なかなか難解《むずか》しいもんで御座いますね」
親方の剃刀が、微かな溜息と一緒に吾輩の襟筋で動き出した。同時に吾輩も心の中でホッとした。生命《いのち》がけの冒険が終局に近付いて来たらしいので……。
「日本の警察なんかじゃ、そんなハイカラな犯罪がある事を知らないもんだから、犯罪と云やあ、金か女かを目的としたものに限っているように思って、その方から探りを入れようとするんだ。だからコンナ事件にぶつかると皆目《かいもく》、見当が附かないんだよ」
「ヘエ。警察では、その目的って奴を、まだ嗅ぎ付けていないんでしょうか」
「いないとも……浮浪人狩なんか遣っているところを見ると、この事件の性質なんか全然《てんで》問題にしないで、見当違いの当てズッポーばっかり遣っているらしいんだね。そうしてこの頃ではモウすっかり諦らめて投出しているらしいね。だからこの犯人は捕まりっこないよ。絶対永久の迷宮事件になって残るものと僕は思うね」
「ヘエ。どうしてソンナ事まで御存じなんで……」
吾輩はヒヤリとした。そういう親方の声が妙に図太く聞えたので、扨《さて》は感付かれたかナ……と内心狼狽したが、色にも出さないまま、眼を閉じて言葉を続けた。
「ナアニ。僕はソンナ事を研究するのが好きだからさ。だからあの空屋《あきや》を買ってみたくなったんだよ。そんな犯罪事件のあった遺跡《あと》を買って、落付いて調べてみると、意外な事実を発見する事があるんだからね。そんな山ッ子が僕の商売なんだがね」
「へえ――。うまく当りますかね」
親方がニヤニヤ冷笑しながら云った。……吾輩の言葉の意味がわかっているのだ。犯人の盗み忘れた金
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