きざ》みの煙草盆を引寄せていたというのだから十中八九、これは犯人が吸い棄てたものではないか……しかも半分以上残っているところを見ると、吸いさしたまま投棄てて犯行に移ったものではないか。その上から血餅が盛り上り、灰が引っ被《かぶ》さって今日《こんにち》まで残っていたものではないか。犯人が絶対に予期しなかった……同時に警察にも新聞記者にも気付かれなかった偶然の結果が、今日に到って、吾輩の眼の前に正体を暴露しているのではないか。
 ……占《し》めた……名探偵名探偵。何という幸先《さいさき》のいい発見だろう……これは……。
 ……神は正直の頭《こうべ》に宿るだ。吾輩の投げた一銭玉に八幡様が引っかかったらしい……。
 ……モウ他には無いか……スバラシイ手懸りは……。
 吾輩は暗い空屋の中で朗らかになりかけて来た。すこし注意力を緊張さえすれば名探偵になるのは造作もない事だ……なんかとタッタ一人で増長しいしい消えたバットに火を点けた。悠々たる態度でその血の痕跡《あと》と、上り框の関係を見較べた。
 被害者の右脇に在る鉄槌《かなづち》を右手で(犯人を右利きと仮定して)取上げて、老爺《おやじ》の頭を喰らわせるのに都合のいい位置を考え考え、上り框に腰を掛け直してみた結果、老爺の右手の二尺ばかり離れた処が丁度いいと思った。
 吾輩……すなわち犯人は、おやじがどこかへ現金を溜めている事を人の噂か何かで知っている。だから家内の様子を見定めるつもりで……泥棒に這入る瀬踏みのつもりで、夜遅く、老爺がタッタ一人で寝ているところを、近所へ気取《けど》られないように呼び起して、取りあえず上等の下駄を買って、上等の鼻緒をスゲさせている……つもり[#「つもり」に傍点]になってみる。そうして正直者の老爺が一生懸命に仕事をしている隙《すき》に、煙草を吹かし吹かしジロジロとそこいらを見廻していたであろう犯人の態度を真似てみる。つまり一廉《ひとかど》の名探偵を学んだ独芝居《ひとりしばい》であるが、やってみると何となく鬼気が身に迫るような気がする。そのうちに、フト頭の上の半分割れた電燈の笠を見上げたトタンに我輩は又、一つの素晴らしいインスピレーションにぶつかった。犯人のその時の心理状態がわかったように思ったので、吾ながらゾーッとさせられた。
 その電燈の位置と、血の痕跡《あと》の位置とを見比べて、老爺《おやじ》が仕事をしている状態を想像すると、ちょうど電燈の真下の処に老爺の禿頭《はげあたま》が来る事になる。デンキとデンキの鉢合わせだ。嘸《さぞ》テカテカと光っていた事であろう。
 近所|隣家《となり》は寝鎮《ねしず》まった、深夜の淋しい横町である。ほかには誰も居ない空屋同然の家の中で、両切《りょうぎり》を吹かしながらその禿頭を睨んでいた犯人の気持は誰しも想像出来るであろう。そこへ何も知らない老爺が、鼻緒を引締めるために、力を入れながら前屈《まえかが》みになる。テカテカ頭を電燈の下にニューと突き出す。トタンに使い終った重たい鉄槌《かなづち》を無意識に、犯人の鼻の先へゴロリと投出す。
 ……これじゃ殴らない方が間違っている。何の気も無い人間でもチョットの間《ま》……今だ……という気になるだろう。笑っちゃいけない。そんな千載の一遇のチャンスにぶつかれば吾輩だって遣る気にならないとは限らない。禿頭と鉄鎚の誘惑に引っかからないとは限らない。人間の犯罪心理というものはソンナところから起るものだ。つまりこの事件はホンノ一刹那に閃めいた犯罪心理が、ホンノ一刹那に実現されたものに過ぎないのではないか……という事実が考えられ得る。両切を吸口無しで吸ったり、上等の下駄を穿いたりするインテリならば……殊に虚無主義的《ニヒリステック》な近代の、文化思想にカブレた意志の弱い人間ならば尚更、文句なしに、そうしたヒステリー式な犯罪をやりかねないであろう可能性がある。
 吾輩はズット以前、借金|取《とり》のがれの隙潰《ひまつぶ》しに警視庁の図書室に潜り込んで、刑事関係の研究材誌を読んだ事がある。その時に何とかいう仏蘭西《フランス》の犯罪学博士の論文の翻訳の中に出ていた「純粋犯罪」という名称を思い出した。犯罪に純粋もヘチマも在ったものではないが、つまり何の目的も無しに、殺してみたくなったから殺した、盗んでみたくなったから万引したという、ホントウの慾得を忘れた犯罪心理……生一本《きいっぽん》の出来心から起った犯罪を純粋犯罪というのだそうで、この種の犯罪は世の中が開けて来るに連れて殖《ふ》えて来るものである。如何なる名探偵と雖《いえど》も、絶対に歯を立て得ない迷宮事件の核心を作るものは、外ならぬこの「純粋犯罪心理」……とか何とか仰々《ぎょうぎょう》しく吹き立ててあった。……まさかソレ程の素晴らしい、尖端的なハイカラ犯罪が、勿体なくも八幡宮のお膝下に住居《すまい》する仏惣兵衛の、正直の頭《こうべ》に宿ろう等《など》とは思われないが、しかし現場から感じた吾輩のインスピレーションの正体は、突飛《とっぴ》でも何でも、たしかにソレなんだから止むを得ない。つまるところ全くの初心者が偶然に演出した迷宮事件の傑作としか思えないのだから止むを得ない。
 だから犯人はアトで自分の犯した罪の現場《げんじょう》の物凄さに仰天して狼狽して逃出したのではないか。だから犯人のアタリが全然付かないまま事件が迷宮に這入ってしまったのではないか。論より証拠……そう考えて来ると万事都合よく辻褄《つじつま》が合って来るではないか。あらゆる材料が必然的に絶対の迷宮に行詰って来るではないか。
 ……ナアンダイ……。
 迷宮を破りに来て、迷宮を裏書きしていれあ世話はない。
 ……どうも驚いた。最初には目的無しの犯罪は無いと断定していた吾輩のアタマが、物の一時間と経たない中《うち》に今度は、正反対の断定を下している。そうした事実を物語る厳然たる事実を認めて面喰っている。……どうも驚いた……。
 金箔《きんぱく》付の迷探偵が一人出来上った。八幡様の一銭がチット利き過ぎたかな。それとも名探偵のアタマが少々冴え過ぎたかな……と思い思い吾輩は縁日物の中折《なかおれ》を脱いで、東京以来のモジャモジャ頭を掻き廻わした。同時にムウッとする程の頭垢《ふけ》の大群が、天窓の光線に輝やきながら頭の周囲に渦巻いた。
 いけないいけない。コンナに逆上《のぼ》せ上っては駄目だ。気を急《せ》かしては駄目だ。一つ頭髪《あたま》でも刈直《かりなお》して、サッパリとしてからモウ一度、ここへ来て考え直してみるかな。
 吾輩は表の戸口をソッと開いて横町の通りへ出た。
 すぐ隣家《となり》の、新しい理髪屋《とこや》の表の硝子《ガラス》障子を、ガラガラと開いた。
「いらっしゃいまし」
 という女みたような優しい声が聞こえた。火鉢の横に腰をかけて、長羅宇《ながらう》の真鍮|煙管《きせる》で一服吸っていた、若い親方が、直ぐに立って来た。
 吾輩は一瞬間ポカンとなった。トテモ福岡みたいな田舎に居そうにもない歌舞伎の女形《おやま》みたいな色男が、イキナリ吾輩の鼻の先にブラ下がったので……。
 吾輩も色男ぶりに於ては、東京|初下《はつくだ》りの自信をすくなからず持っているつもりであるが、残念ながらこの若い親方にはトテモ敵《かな》わないと思った。
 一軒隣りの荒物屋のお神さんが移転《ひっこ》すのを考えているというのも無理はないと思った。芝居の丹次郎と、久松と、十次郎を向うに廻わしてもヒケは取りそうにないノッペリ面《づら》が、頬紅、口紅をさしているのじゃないかと思われるくらいホンノリと色っぽい。それが油気抜きの頭髪《あたま》にアイロンをかけてフックリと七三に分けている。
 白い筒袖の仕事着を引掛けているから着物の柄はわからないが、垢の附かない五日市の襟をキュッと繕って、白い薄ッペラな素足に、八幡黒《やはたぐろ》の雪駄《せった》を前半《まえはん》に突かけている。江戸前のシャンだ。二十七八の出来|盛《さか》りだ。これ程の男前の気取屋《きどりや》が、コンナ片田舎のチャチな床屋に燻《くす》ぼり返っている。……おかしいな……妙だな……と男ながら惚れ惚れと鏡越しに見恍《みと》れているうちに、若い親方は、吾輩の首の周囲《まわり》に白い布片《きれ》をパッと拡げた。
「お刈りになりますので……」
 と前こごみになって吾輩の顔を覗き込む拍子に、その白い仕事着の懐中《ふところ》から、何ともいえない芳香がホンノリと仄《ほの》めき出た。
 馬鹿馬鹿しい話だが吾輩の胸がチットばかりドキドキした。……江戸ッ子に似合わないイヤ味な野郎だな……とアトからやっと気が付いた位だ。
「失礼ですが旦那、東京の方で……」
 若い親方が吾輩の首の附根の処でチョキチョキと鋏《はさみ》を鳴らし初めた。
「ウン。これでも江戸ッ子のつもりだがね」
「東京はドチラ様で入らっしゃいますか」
 少々言葉付きが変態である。江戸前の発音とアクセントには相違ないが、語呂《ごろ》が男とも女とも付かない中途半端だ。しかし愛嬌者と聞いたから一つ話相手になってやろうか……気分の転換は無駄話に限る……事によると隣家《となり》の迷宮事件のヒントになる事を聞き出すかも知れない……と気が付いたから出来るだけ気軽く喋舌《しゃべ》り初めた。
「東京だってどこで生れたか知らねえんだ。方々に居たもんだから……親代々の山ッ子だからね」
「恐れ入ります」
「君も東京かい」
「ヘエ……」
 と云ったが言葉尻が聊《いささ》か濁った。
「いい腕じゃないか。鋏が冴えてるぜ。下町で仕込んだのかい」
「ヘエ……」
 と又言葉尻が薄暗くなる。愛嬌者だというのに、どうも、おかしな男だ。東京を怖がっているような言葉尻の濁し方だ。多分東京で色事か何かで縮尻《しくじ》って落ちぶれて来たんだろう。東京と聞くとゾッとするような思い出があるんだろう。
「どうしてコンナ処へ流れて来たんだい。それくれえの腕があれあ、東京だって一人前じゃないか。ええ?……」
「そんなでも御座んせん」
「ござんせん」がイヤに「ござんせん」摺《ず》れがして甘ったるい。寄席《よせ》芸人か、幇間《たいこもち》か、長唄|鼓《つづみ》の望月《もちづき》一派か……といった塩梅《あんばい》だ。何にしてもコンナ片田舎で、洗練された江戸弁を相手に、洗練された鋏の音を聞いているともうタマラなく胸が一パイになる。眼を閉じていると東京に帰ったようななつかしい気がする。
「どうだい。東京が懐かしいだろう」
「……………」
 今度は全然返事をしない。よっぽど気の弱い男と見える。
「ずいぶん掛かるだろうなあ。コレ位の造作《ぞうさく》で理髪屋《とこや》を一軒開くとなると……ええ?……」
「……………」
 話頭《はなし》を変えてみたが、依然として返事をしない。眼を開《あ》いて鏡の中を見ると、真青になったまま、婆《ばばあ》じみた、泣きそうな笑い顔をしいしい首を縮めて鋏を使っている。鏡越しに顔を見られたので、仕方なしに作った笑顔らしかった。
「ヘエ。すこしばかり……山が当りましたので……」
 とシドロモドロの気味合いで答えた。まるで警察へ行って答えるような言葉遣いだ。……どうも怪訝《おか》しい。とにかく一種変テコな神経を持った男に違いない……と思った。それでも頭髪《あたま》はナカナカ上手に刈れている。吾輩の薄い両鬢《りょうびん》に附けた丸味なぞ特に気に入った。巾着切《きんちゃくきり》かテキ屋みたいに安っぽい吾輩の顔の造作が、お蔭で華族の若様みたいなフックリした感じに変って来たから不思議だ。
「山が当ったって相場でも遣ったのかい」
「……ヘエ……まあ。そんなところで」
 若い親方の返事がイヨイヨ苦しそうである。吾輩は又、話頭《はなし》を変えた。
「隣りの家《うち》ねえ」
「ヘエッ……」
 トタンに若い親方の顔が、鏡の中でサッと変った。鋏を動かす手がピッタリと止まった。ヨクヨク臆病な男と見える。そんなに魘《おび》える位なら、そんな恐怖《こわ》い家の近くへ来なけあいいにと思った。
「実は
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