背後の扉が音もなく開《あ》いた。スバラシイ幻影が音もなく辷《すべ》り込んで来て、しなやかに吾輩の前に立止まった。香水の匂いの棚引く中に恭《うやうや》しく頭を下げた。
 何という生地《きじ》かわからぬ金線入《きんせんいり》、刺繍裾模様の訪問着に金紗《きんしゃ》の黒紋付、水々しい大丸髷《おおまるまげ》だ。上げた顔を見ると夢二式の大きな眼。小さな唇。卵型の腮《あご》。とても気品のある貴婦人だ。年齢なんかわからない位だ。
 吾輩は二重三重に面喰って頭を下げた。
「僕は……私は……只今名刺を差上げました玄洋日報社の羽束という者ですが」
「わたくしは安島二郎の家内で御座います」
「あ……そうですか」
 やっとわかった。安島二郎というのは当主、安島一郎子爵の弟で、現在、鎮西《ちんぜい》電力会社の重役をしている。有名な道楽者だ。兄の炭坑王の家《うち》に同居していると見える。
「……あの……何か御用で……」
 そういう地声が、すこしシャ嗄《が》れているところをみると、どうやらこの夫人の素性がわかるようだ。無論、風邪を引いてるんじゃあるまい。
「……実は……その……」
 と吾輩は眼を白黒した。来るんじゃな
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