ちだろうと思って、ひとりでに胸がドキドキした事を告白する。
 吾輩はそれから鷹揚《おうよう》な態度で、支配人の霜川なる人物を呼び出して特等の部屋を命じた。中禿《ちゅうはげ》の温厚らしい支配人は、叮嚀に分けた頭を叮嚀に下げて、紅茶を入れた魔法瓶を手ずから提げて来て最上階の見事な部屋に案内した。さながらに映画スターの私室《プライベート》然たる到れり尽せりの部屋だ。モット立派な部屋を見た事は何度もあるが、しかしそれは単に見ただけで泊った事は一度も無い事を念のため今一つ告白しておく。況んや、お玉みたような別嬪《べっぴん》と、同じ卓子《テーブル》でカクテルを傾けようなんて運命を、夢にも想像し得なかったのは無論であった。甚だ甘いところばかり告白して申訳ないが、事実は甚だ苦々しいんだから勘弁して頂きたい。
「ねえ御覧なさい。いい月夜じゃないの」
「ああ。博多湾ってコンナに景色のいい処たあ思わなかったね。玉ちゃん初めてかい」
「ええ。初めてよ。いわば商売|讐《がたき》のアンタとコンナ処でコンナ景色を見ようなんて思わなかったわ。チイットばかりセンチになりそうだわ」
「――僕もセンチかミリになりそうだ。ね
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