最低級の邦字新聞と聞いたが、成る程、汚い紙面だ……なぞと思い思い、給仕に十銭のチャイニーズ・ホワイトのチューブを買って来さした。写真室に在る日本の水雷艇の写真と引合わせながら一生懸命に腕を揮《ふる》って、十銭の水彩顔料と、墨汁を塗りこくった。ところで、それから今一度、山羊髯に見せればよかったのだが、早く帰りたかったものだから、
「銅版屋へ廻わしてもいいですか」
 と怒鳴ったら朝刊の記事を直していた山羊髯が、手軽くうなずいた。そこで補筆価値百二十パーセントの堂々たる日章旗を翻した司令塔、信号マスト、水雷発射管、速射砲の設備整然たる五百|噸《トン》級、乃至《ないし》二百噸級の水雷駆逐艇が五艘、九十線の銅版キメ細やかに浮き出しているとは夢にも知らずに、山羊髯が「分捕潜水艇」の標題を附けた版下《はんした》の寸法書《すんぽうがき》を印刷部へまわしたものだろう。
 近頃大評判の独逸《ドイツ》潜水艇の写真を、不思議に早く着いた上海○○新聞から切抜いて東京大阪の新聞をアッと云わせようという山羊髯の心算《つもり》だったのだろう。
「飛んでもない事をした。この新聞が佐世保へ廻わったらドンナに笑われるか……イヤ。大阪の新聞がドレ位腹を抱えるか。つまるところ、山羊髯と俺が同罪なんだ。チョットした不注意だったのだが。イヤ。ヒドイヒドイ」
 そう考えるとスッカリ眼が醒《さ》めてしまったが、何だか社に出るのが気まりが悪いような気がした。何とかして記事で正誤、訂正するか、取消しにする方法は無いものかと考えたが、生憎《あいにく》な事に写真ばっかりは一度掲載したが最後、取返しが絶対につかない事を覚った。
 弱ったな……と悲観しているところへ下宿の女将《かみさん》が、梯子段の下から顔を出した。
「羽束さん。もうお眼醒めだすな」
 その櫛巻《くしま》きの肥っちょう面《づら》を見ると思い出した。この女将《かみさん》は吾輩に度々特種を提供している。
 ……巡礼|婆《ばばあ》の行倒おれ……
 ……近所のドクトルの淋病……
 ……タキシー屋の幽霊……
 ……町内の標札の紛失……
 なぞ、なかなか面白いが、今朝《けさ》も何か、そんなニュースが這入《はい》ったらしい。吾輩は頭のフケを狂人《きちがい》のように掻きまわしながら起上った。
「何ですか。お神《かみ》さん。又事件ですかい」
 女将《かみさん》は返事をする準備と
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