なくステッキの前にうなだれてしまった。この間、酔っ払った勢いでナグリ倒した救世軍士官の顔が、眼の前にチラ付いて来た。
「……ヒッ……ヒッ……ヒ……」
 山羊髯が突然に妙な声を出したので、吾輩はビックリして顔を上げた。まるで山羊のような声だと思いながら……その時に山羊髯はヤッと咽喉《のど》に絡まった痰《たん》を嚥《の》み下して、蚊の啼くような声を切れ切れに出した。
「……まあ……何か……記事になりそうな話を……一つ……取って来て御覧なさい……ヒッ……ヒッ……ヒヒ……ゴロゴロゴロ……」
 と云ううちに又一つ痰《たん》を嚥《の》み下して眼をショボショボさした。生きている甲斐も御座いません……と云いたいような表情をしたと思うと、そのままスウスウと煙のように立上って廊下に出た。廊下の向うの、板壁の向うの編輯室らしい方向へ消えて行った。右足が曲っているらしく非道《ひど》いビッコを引きながら……。
 吾輩は呆気《あっけ》に取られてその背後《うしろすがた》を見送った。頭の芯《しん》がジイーンと鳴り出したような気がした。
「……山羊髯のオジサン。ちょっと待って下さい。実はその現在一文もお金が無いのです。僕を採用するならするでイクラカ前貸しして頂きたいのですが」
 と呼びかける勇気も無くしてしまったまま杖に縋《すが》ってヒョロヒョロと立ち上った。
 コンナ編輯長に出会った事は今までに一度も無い。
 コンナ屁ッポコ新聞社に跼《かが》まっているヨボヨボの編輯長が、吾輩のモノスゴイ、スバラシイ性格や技能をタッタ一眼で見貫《みぬ》き得る筈は絶対に無い訳なのに、何一つ尋ねるでもなければ、社としての希望を述べるでもない。おまけに採用するつもりか、そうでないのかテンデ見当の付かない事をタッタ一言、云いっ放しただけで、ビッコ引き引き引上げるなんて、無責任なのか、乱暴なのか、礼儀を知らないのか、それとも吾輩の事を同業者仲間の誰からか聞いて知っているのか……又は新聞記者を鉛筆|担《かつ》いだ木ッ葉職人同然に心得ているのか……何が何だか見当が付かない……とに角にも編輯長をつとめている以上キチガイじゃないと思うが……。
 そんな事を考えてボンヤリ突立っているうちに編輯室の方向から電話にかかっている速記者らしい声が聞こえて来た。
「……何だア……武雄から急報……何だア……犯人は何だア……税関……税関がどうしたん
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