…」
 と云い云い傍《そば》の椅子を指したので、イキナリ腰をかけようとすると忽《たちま》ち引っくり返りそうになったから、慌てて両足を突張った。椅子の足がみんなグラグラになっているのだ。吾輩は下ッ腹を凹《へこ》ましてステッキを突張った。
 山羊髯の爺《おやじ》は、その吾輩の真正面に、丸|卓子《テーブル》を隔ててチョコナンと尻を卸《おろ》した。向側《むかいがわ》の椅子も相当歪んでいるようであるが、引っくり返らないのは身体《からだ》が軽いせいであろう。その貧弱な事、踏台にハタキを立てかけた位にしか見えない。コンナ奴の下になって働らくのか……オヤオヤと思いながらも吾輩は、絶体絶命の雄弁を揮《ふる》って採用方を願い出た。今までの事を残らずブチ撒《ま》けてしまった。
「……だからモウすっかり屁古垂《へこた》れちゃったんです。編輯の給仕から、速記者から、社会部の外交まで通過して来るうちに、悪い事のアラン限りを遣り尽して来たんです。そうしてモウすっかり前非後悔しちゃったんです。これから一つ地道《じみち》になって働らいてみようと思いましてね……どんなボロ新聞社でもいいから……イヤナニその……何です……僕を買ってくれる人の下ならドンナ仕事でもいい……月給なんかイクラでもいい……やってみようと思ってお訪ねした訳なんですが……東京中の新聞社と警察と下宿屋連中にお構いを喰っちゃったんで行く処が無いんです……今年二十四なんですが……いかがでしょうか……」
 そう云う吾輩の顔を山羊髯はマジリマジリと見ていた。吾輩が臓腑《はらわた》のドン底の屁《へ》ッ滓《かす》の出るところまで饒舌《しゃべ》り尽してしまっても、わかったのか、わからないのかマルッキリ見当が付かない。朝鮮渡来の木像じみた表情で、眼をショボショボさせながら、片手で吾輩の名刺をヒネクリまわしているキリである。
 吾輩もその顔を見詰めて眼をショボショボさせた。真似をしたんじゃない。気味が悪くなって来たからだ。同時に中風病《ちゅうぶうや》みみたような椅子の上に、中腰になっている吾輩の両脚が痺《しび》れそうになって来た。汚れた名刺を取返して、諦らめて帰ろうかと思い思い、尻をモジモジさせていると、又も下ッ腹が大きな音を立ててグーグーと鳴った。今度こそ慥《たし》かに聞こえたに違いない。
 吾輩は心細いのを通越して涙ぐましくなった。見得も栄《は》えも
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