んで。永らく空いてるもんですからね。そんな事を云うんでしょう」
「ウン。是非買いたいんだが、どうだい。坪十円ぐらいじゃどうだい。裏庭を入れて百坪ぐらいは有るだろう」
「そんなには御座んせん。六十五坪やっとなんで。裏庭の半分は他所《よそ》のなんで……」
「向うの駄菓子屋のかね」
「そうなんで……十円の六十五坪の六百五十円……じゃチョット後家さんが手離さないでしょ。建物を突込んで千円位でなくちゃ」
「坪当り十六円か。安くないなあ」
「相場だと二十四五円のところですが」
「しかし八釜《やかま》しい曰《いわ》く附の処だからな」
「旦那は御存じなんで……」
「知ってるとも……迷宮事件だろう……怨みの火の玉が出るってな無理もないやね」
吾輩の頸動脈の処から親方がソッと剃刀を引いた。頬を青白く緊張さしてゴックリと唾液《つば》を嚥《の》み込んだ。
吾輩は少々面白くなって来た。どうもこれが悪い癖なんだが……。
「ねえ。そうだろう。何の罪も無い、ただお金をポチポチ溜めて、お神さんを養生させるだけが楽しみといったような仏性《ほとけしょう》のお爺さんが、怨みも何も無い、思いがけない人間から、思いがけない非道《ひど》い殺され方をしたんだからね。殺されたッ……と思った一刹那の一念は、後を引くってえじゃないか」
親方が何気なく、剃刀を磨ぎに行った。吾輩は追いかけるように振返って問うた。
「君はドウ思うね。この犯人は……」
「……………」
親方は吾輩の質問を剃刀を磨ぐ音に紛らして返事をしなかった。しかしその一心に剃刀を磨ぐ振りをしている色悪《いろあく》ジミた横頬の冴えよう。……人間の顔というものは、心の置き方一つでこうも変るものかと思いながら鏡越しに凝視していた。そのうちに剃刀を磨ぎ澄まして神経を落付けて来たらしい親方が、さり気なく吾輩の背後に立ち廻わって剃刀を構えた。淋しい淋しい微笑を薄い唇に浮かべた。
吾輩は白い布片《きれ》の下で全身を緊張さした。両の拳を握り固めて、無念流の棄て構え……といった恰好に身構えたが、白い布片を剥《め》くったら、虚空を掴んで死にかけている人間の恰好に似ていたろう。コンナに真剣な気持で顔の手入れをしてもらった事は生れて初めてだ。
「モミ上《あげ》は短かく致しましょうか」
「普通《あたりまえ》にしてくれ給え。短かいのは亜米利加《アメリカ》帰りみたいでいけない」
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