「かしこまりました」
「僕は絶対に迷宮事件だと思うね。犯行の目的がわからないし、盗まれた品物も無い。女房は評判の堅造《かたぞう》で病身、本人も評判の仏性で、嚊《かかあ》孝行の耄碌爺《もうろくおやじ》となれあ、疑いをかけるところはどこにも無いだろう。要するにこれは何でもない突発事件だと思うね」
「ヘエ。突発事件……と……申しますと……」
「つまりこの犯人は、いい加減な通りがかりの奴で、最初から被害者を殺す量見なんか毛頭無かったんだ。仏惣兵衛の老爺《おやじ》がどこかに現金を溜め込んでいる位の事を、人の噂か何かで知っている程度の奴が、何の気も無く這入って来て、下駄を誂《あつら》えながらそこいらを見まわしているうちに、フイッと殺す気になったんじゃないかと思うんだがね。これで殴ってくれといわんばかりに鉄鎚《かなづち》を眼の前に投出して、電燈の下に赤いマン丸い頭をニュッと突出したもんだから、ツイフラフラッとその鉄鎚を引掴んで……」
「……………」
 耳の附根の処をゾキゾキやっていた剃刀の音がモウ一度ソッと離れ退《の》いた。同時に吾輩のお尻から両|股《もも》にかけてゾーッと粟立って来た。見ると若い親方は、眼を真白くなる程|瞠《みは》って、鏡の中の吾輩の顔を凝視している。ピリピリと動く細い眉。キリキリと冴え上った眥《めじり》。歪《ゆが》み痙攣《ひきつ》った唇。……吾輩の耳の蔭でワナワナと震える剃刀……。
 ……これは不可《いけ》ない。大シクジリだ。何とかしてこの親方を安心させて、気を落付かせなければいけない。薬がチット利き過ぎるようだ。このまま表へ飛出して行衛《ゆくえ》を晦《くら》まされたりしては面倒だ。
「アハアハアハ。どうだい親方。驚いたかい。俺あタッタ今行って現場《げんじょう》の模様を見て考えて来たんだ。何一つ盗まれていない原因もハッキリとわかったんだ。殺《や》ってしまってから急に恐ろしくなって逃げ出したものに違いないんだからね」
「……………」
「つまりアンナ空屋の中にタッタ一人で住んでいた禿頭の老爺《おやじ》が悪いという事になるんだ。迷宮事件を作るために居たようなもんだ。ねえ君。そうだろう……僕は犯人に同情するよ」
「そうですか……ネエ……ヘエ――ッ」
 と若い親方が五尺ばかりの長さの溜息を吐《つ》いた。衷心《ちゅうしん》から感心してしまったかのように……。
「……おど
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