ねえ。あの隣家《となり》の屋敷を買いたいと思って、今日覗いて来たんだがね。持主は誰だい……今のところ」
「……ヘエ……あれはねえ……」
 若い親方の顔色が、見る見る柔らいで来た。肩の下と両頬に赤味がポーッと復活して来る中《うち》に鋏がチャキチャキと動き出した。
「あれはですねえ。今んところあの一木ってえお爺さんの後家さんのものになっているんですがねえ。実はあっし[#「あっし」に傍点]頼まれているんですけども……」
「フウン。心安いのかい後家さんと……」
 若い親方の顔が急に苦々しい、虫唾《むしず》の走りそうな恰好に歪《ゆが》んだ。同時にその眥《めじり》がスーッと切れ上って、云い知れぬ殺気を帯びた悪党|面《づら》に変った。
「いいえ。……その……別にソンナ訳じゃありませんけど、あの後家さんがツイこの間来ましてね。呉々《くれぐれ》もよろしく……買手があったら安く売りますからってね」
「フウン。君はそれじゃ、古くからここに居たんだね」
 親方は白い眼尻でジロリと吾輩の顔を見た。不愉快そうに答えた。
「いいえ。ツイこの頃ここに来たんですけどう」
「いつからだい……」
 ここまで尋ねて来るうちに吾輩はヤット気が付いた。どうも最前からの話ぶりが陰気臭い。怪訝《おか》しい怪訝しいと思ったが、この男の過去には何か暗いところがあるらしい。おまけに被害者の後家さんと懇意らしいところをみると、これは何かしら大きな手がかりになるかも知れない。相場が当った……とか何とか云っているがヒョッとすると……そう思うと吾輩の胸が又も、別の意味でドキンドキンとした。
 しかし……それにしても迂濶《うっかり》した事は尋ねられない。何しろ相手は腕の冴えた職人に在り勝ちな一種特別の神経の持主だ。虫も殺さない優しい顔を一瞬間に老人の顔から、悪党|面《づら》へとクラリクラリ変化させる位カンの強い人間だから、万一、この男が事件に関係を持っているとすれば、既に今まで尋ねた事柄だけでも、尋ね過ぎる位、手厳しく突込んでいる筈だ。身に覚えのある人間なら、余程の自信が無い限り、トックの昔に感付いている筈だ。
 況《いわ》んやその当の相手は、現在ドキドキと磨《と》ぎ澄ました大型の西洋|剃刀《かみそり》を持って、吾輩の咽喉《のど》の処を、ゾリゾリやっている。もしもこの男が、所謂「純粋犯罪」を遣りかねない種類の脳髄の持主で、吾輩に
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