たから、色恋の沙汰も、人に怨まれるような事も在りそうに無い……というのがこの事件の核心的な不思議の一つであった。
 そのうちに伊勢の山田の灸点《きゅうてん》の先生の処へ行って養生をしていた、女房のお近婆さんが驚き慌てて帰って来たが、大学で解剖後、火葬に附せられた亭主の骨壺を抱いて、涙に暮れるばかりであった。
「只今まで警察で厳しいお調《しらべ》を受けましたが、妾《あたし》はマッタク何も存じません。妾はこの亭主に一生苦労をさせ通して死に別れました。子供は無いし、これぞという親戚も無いし、跡《あと》はどうしてよいやら途方に暮れております。
 結婚後、血の道から癆性《ろうしょう》になって、そこの灸が利くとか、御祈祷がよいとか聞くたんびに、西から東と走りまわって養生をしておりましたが、その養生の費用を稼ぐばっかりで亭主は一生を終りました。お前が健康《じょうぶ》になってくれさえすれば、どこからか二千円ばかり算段して来て、下駄の卸問屋《おろしどんや》をして、自分で卸してまわるのに……と云うておりましたが、それも今は夢になってしまいました。この家《うち》でも売ってお金にして、門司に居る甥《おい》の処へでも行くより外に仕方はありませぬ……云々……」
 こうした言葉を警察では図星《ずぼし》に信じてしまったらしい。結局、犯行の目的がわからぬとなると、直ぐに市内の浮浪狩を初めて、怪しいと思う奴を片《かた》ッ端《ぱし》からタタキ上げたらしい記事が、それから二三日おいて連続的に掲載されているが、つまらない狐鼠泥棒《こそどろ》ぐらいのものを掘出しただけで、下駄屋殺しの嫌疑者らしい者は影法師すら発見出来なかった。それっきり事件は迷宮に這入ってしまって、世間からも新聞社からも忘れられているらしい。
 これだこれだ……。
 コンナ美味《うま》い材料《ねた》が外に在るものか。特に吾輩のために警察が取っといてくれたような迷宮事件だ。
 第一、人を殺すのに目的無しで殺す奴があるものじゃない。
 第二にコンナ気の小さい、苦労性な老爺《おやじ》は、儲けた金を銀行や郵便局へ預けるほかに、よく現金のマンマで、どこか人の知らない処にシコ溜めている例があるものだ。殊に世間から、正直とか、仏とか呼ばれている人間にソンナ種類の金溜《かねた》め屋《や》が多いのは、吾輩が覗きまわった種々雑多な社会層の中《うち》で屡々《しばし
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