をピッタリ卸《おろ》したままである。……いつも早起きの爺さんが……と近所の者が不審を起して、午前の十一時頃になってから、表の板戸を引っぱってみると、何の苦もなくガラガラと開《あ》いた。見ると下駄や草履《ぞうり》を並べた表の八畳の次の六畳の間《ま》の上《あが》り框《がまち》の中央に下駄の鼻緒だの、古新聞だのが取散らしてある中に、店の主人一木惣兵衛(六十四歳)が土間の方を向いて突伏《つっぷ》している。そのツルツルの禿頭《はげあたま》は上框からノメリ出して、その真下の土間に夥しい血の凝塊《かたまり》が盛り上っている。脳天の中央に、鉄槌《かなづち》様の鈍器で叩き破られた穴がポコンと開《あ》いて、真黒な血の紐《ひも》がユラユラとブラ下がっていた。何等の苦悶の形跡《あと》も無い即死と見えた……という簡単な死に方だ。その屍体の両手は、鼻緒をスゲ掛けた、上等の桐柾《きりまさ》の駒下駄をシッカリと掴んでいた……というのだから、註文したお客が、仕事に気を取られている老爺《おやじ》の油断を見澄まして、一撃《ひとう》ちに殺《や》ったものに違いない。現に兇行用のものに相違ない、尖端《はし》に血の附いた仕事用の鉄槌が、おやじの右脇に在る粗末な刻みの煙草盆の横に転がっていた。兇行後、無造作に投出して行ったものと認められた。そのほかに手懸りらしいものといっては一つも半カケも認められない(参考のために附記しておくが、その時分大正十一年頃までは指紋法が全国に普及していなかった)。
 ただ、それだけの現場《げんじょう》である。何も無くなった品物も無く、荒らされている形跡も無い。近所の者の話によるとこの爺さんは綽名《あだな》を仏《ほとけ》惣兵衛と呼ばれていた位の好人物だったそうだ。古くからこの土地で小さな下駄屋を遣っていたが、儲《もう》けた金は病人の女房の養生費にアラカタ注《つ》ぎ込んでいたものだという。だから今度の災難もその女房が、養生に行った留守中、タッタ一人で自炊していたために起った事件に違いないが、売溜《うりだめ》の十一円なにがしの金は、三百四十円ばかりの貯金の通帳と一所《いっしょ》に、手提金庫の中にチャンと在ったのだから、それを目的の仕事とは思えない。しかし又一方にこの惣兵衛さんはモウ六十いくつで、仏と云われる位の好人物だったし、女房のおチカ婆さんというのが又、近所でも評判の堅造《かたぞう》だっ
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