振り撒《ま》くつもりで降りたらモウ一人福岡署から加勢が来ている上に、アンタまで跟《つ》けて来るんだもの。妾モウすっかり観念しちゃったけど、アンタの気心がまだわからないから、行くところまで行ってみるつもりでここまで来てみたのよ。……ね……アンタ後生だから今夜妾と一緒に泊って頂戴。アンタ今、どこかここいらの新聞社に這入っているんでしょ。だから妾を奥さんにでもして、一緒に泊めて頂戴。御恩は一生忘れないから。仕事は山分けにしてもいいから……ね……後生だから……ネッ……ネッ!」
と云ううちに燃ゆるような熱情を籠めた眼付で、今一度、吾輩を見上げ見下《みおろ》した。吾輩はその瞬間純色透明になったような気がした。この素寒貧《すかんぴん》姿を見上げ見下ろされては、腸《はらわた》のドン底まで見透《みす》かされざるを得ない。純色透明にならざるを得ない。吾輩は黙って一つ大きくうなずいた。大いに引受けたところは誠に立派な男であったが、トタンに眼の前で、桃色と山吹色の夢の豪華版が渦巻いたのは吾ながら浅ましかった。事実この時に吾輩は夢ではないかと自分自身を疑ったくらいだ。地獄から極楽へ鞍替えをした亡者はコンナ気持ちだろうと思って、ひとりでに胸がドキドキした事を告白する。
吾輩はそれから鷹揚《おうよう》な態度で、支配人の霜川なる人物を呼び出して特等の部屋を命じた。中禿《ちゅうはげ》の温厚らしい支配人は、叮嚀に分けた頭を叮嚀に下げて、紅茶を入れた魔法瓶を手ずから提げて来て最上階の見事な部屋に案内した。さながらに映画スターの私室《プライベート》然たる到れり尽せりの部屋だ。モット立派な部屋を見た事は何度もあるが、しかしそれは単に見ただけで泊った事は一度も無い事を念のため今一つ告白しておく。況んや、お玉みたような別嬪《べっぴん》と、同じ卓子《テーブル》でカクテルを傾けようなんて運命を、夢にも想像し得なかったのは無論であった。甚だ甘いところばかり告白して申訳ないが、事実は甚だ苦々しいんだから勘弁して頂きたい。
「ねえ御覧なさい。いい月夜じゃないの」
「ああ。博多湾ってコンナに景色のいい処たあ思わなかったね。玉ちゃん初めてかい」
「ええ。初めてよ。いわば商売|讐《がたき》のアンタとコンナ処でコンナ景色を見ようなんて思わなかったわ。チイットばかりセンチになりそうだわ」
「――僕もセンチかミリになりそうだ。ね
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