源次らしい咳払いすら聞こえなかった。
 仕繰夫《しくり》の源次は、そうした皆の視線とは正反対の方向に、小さくなって隠れていたのであった。室《へや》の奥の押入の前に立てた、新聞|貼《ばり》の屏風の蔭に、コッソリと跼《うずく》まり込みながら、眼の前で、苦しそうに肩で呼吸《いき》している福太郎の顔を、一心に見守っていた。ツイ今|先刻《さっき》まで、真赤になっていたその顔が、次第次第に青褪めて、眼を見開いた行き倒れのように、気味の悪い、ゲッソリとした表情に変って行くのを、驚き怪しみながら見とれているのであった。

       下

 福太郎は最前から、押入の前に横たおしになったまま、割れるような頭を、両手でシッカリと抱えていた。思わず飲まされ過ぎた直し酒に、スッカリ参ってしまって、暫くの間は呼吸《いき》が出来ないくらい胸が苦しくなっていた。耳の附け根を通る太い血管の鳴る音が、ゾッキリゾッキリと剃刀《かみそり》で削るように聞こえて、眠ろうにも眠られず、起きようにも起きられない苦しさのうちに、ツイゾ今まで思い出した事もない、子供の時分の記憶の断片が、思いがけない野原となったり、眩《まぶ》しい夕焼
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