度唇をムックリと閉じた。それから左右の白眼を、魚のようにギラギラ光らせると、泥まみれの両頬をプーッと風船ゴムのように膨らまして、炭の粉《こ》まじりの灰色の痰《たん》を舌の尖端《さき》でネットリと唇の前に押出した。そうしてプーッと吹き散る唾液《つば》の霧と一緒に、福太郎の顔の真正面から吹き付けた。
 その刹那に福太郎は思わず瞬を一つした……ように思ったが……それに連れて全身が俄《にわ》かに堪らなくゾクゾクし始めて、頭の痛みが割れんばかりに高まって来たので、又も両眼を力一パイ見開きながら、モウ一度鼻の先に在る源次の顔をグッと睨み付けた。すると又、それと殆んど同時に福太郎は、自分を凝視している源次のイガ栗頭の背景となっていた、岩の凸凹《でこぼこ》が跡型もなく消え失せて、その代りにラムプにアカアカと照らされた自分の家《うち》の新しい松板天井が見えているのに気が付いた。そうしてその憎しみに充ち満ちた源次の顔の上下左右から、ラムプの逆光線を同じように受けた男女の顔が幾個《いくつ》も幾個も重なり現われて、心配そうに自分の顔を見守っている視線をハッキリと認めたのであった。
 ……その瞬間であった。
 ただならぬ人声のドヨメキが自分の周囲に起ったので、福太郎はハッと吾に返った。
 見ると眼の前には※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、334−2]《カネ》サの半纏を着た源次が俯伏せになっていて、ザクロのように打ち破《わ》られたイガ栗頭の横腹から、シミジミと泌み出す鮮血の流れが、ラムプの光りを吸取りながらズンズンと畳の上に匐《は》い拡がっているのであった。
 左右を見廻すと近くに居た連中は皆《みんな》、八方へ飛退《とびの》いた姿勢のまま真青な顔を引釣らして福太郎の顔を見上げていたが、中には二三人、顔や手足に血飛沫《ちしぶき》を浴びている者も居た。
 福太郎は茫然となったまま稍《やや》暫らくの間そんな光景を見廻していたが、やがてその源次の枕元に立ちはだかっている自分自身の姿を、不思議そうに振り返った。
 見ると両腕はもとより、白い浴衣の胸から肩へかけてベットリと返り血を浴びていて、顔にも一面に飛沫《しぶき》が掛っているらしい気もちがした。そうしてその右手には、いつの間に取出したものか、背後《うしろ》の押入の大工道具の中《うち》でも一番|大切《だいじ》にしている「山吉《やまきち》」製の
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