《まっくら》になっていた。
 アトを見送った三人の警官[#底本では「警察」と誤記]は、顔を見合せてドッと笑い崩れた。

 万平は親方に見付からないように、勝手口からソーッと這入って行くと、トタンに奥の方から大きな怒鳴り声が聞えた。
「どこへ行ってやがったんだ。間抜めえ」
 万平は上框《あがりかまち》へヘタヘタと両手を支《つ》いた。奥から一パイ飲んだらしい中禿《ちゅうはげ》の親方が、真赤な顔をして出て来た。青い筋が額にモリモリと浮上っていた。
「……芝居狂《しべいきちげ》えも大概《てえげい》にしろ馬鹿野郎……タタキ出すぞ……」
「まあ、お前さん、そう口汚なく云わなくったって……」
 と横から綺麗にお化粧したお神さんが止めた。お神さんはいつでも万平|贔負《びいき》であった。芝居のお供といったらいつも万平で、万平のお蔭でお神さんは一廉《ひとかど》の芝居通になっていたのであった。
「黙ってスッ込んでいろ畜生。何が面白いんだアンナものが。芝居《しべい》や活動なんテナみんな作りごとばかりじゃねえか。ええ、おい。あんな物あ女の見るもんだ。男なら角力かベースボールでも見やアがれ。芝居《しべい》なんて物を見ると臓腑《はらわた》が腐っちゃって仕事に身が入らなくなるんだ。アンナ作りごとばかり見てた日にゃ、世の中の事がミンナ嘘に見えて来らあ。ケッ……忌々《いめいめ》しい野郎だ」
「まあ。そんなに云うもんじゃないよ。サア、万ちゃん御飯《おまんま》お上り。お腹が空《す》いたでしょう」
「飯ばかり喰らいやあがって畜生めえ。一体《いってい》イツ時分だと思ってやんだ……今を……」
「それあネエ。一幕見のつもりだってもね。ツイ出られなくなるもんですよ。ねえ」
「チッ……嫌に万公の肩ばかり持ちやがる。手前がソンナだから示しが附かねえんだ」
「だって万ちゃんなんかイツモ影日向《かげひなた》なんかしないんだから……タマにゃあねえ」
「ええ。この野郎。何が影日向だ。材木置場《おきば》[#ルビは「材木置場」にかかる]に行って見ろ。何も片付いてやしねえじゃねえか。杉ッ皮を放ったらかしてどこかへ行きやがったに違えねえんだ。ここへ出て来い畜生」
「まあお待ち。お前さんたら馬鹿馬鹿しい。何もそんなに喧嘩腰にならなくたっていいじゃないの。ねえ万ちゃん。いったいどこへ行ったの。そんなに、いい劇《の》がどこかへ掛かってんの」
 と云ううちにお神さんが万公の前へ剥げチョロケたお膳とお櫃《ひつ》を押し遣った。
 万公は上り框《かまち》に両手を突いたままメソメソ泣出していた。それはお神さんの親切に対する有難涙でもなければ、親方に叱られた口惜し涙でもなかった。
 ……この世の中には芝居以上に真剣な、危なっかしい事がイクラでもあります。私はそのために今まで闘って来たのです。私の今の気持は芝居どころじゃないのです……。
 と云いたくてたまらないのに、どうしてもそれが口に出して云えない、情なさからの涙であった。
「まあ。万ちゃん。泣いてるじゃないの。可哀そうに……御覧よ。お前さんがアンマリ叱るから万ちゃん泣いてるじゃないの。咽喉《のど》をビクビクさして……さあさあ、もういいから御飯お上り。ね。ね」
「テヘッ。呆れて物が云えねえ。咽喉のビクビクが可哀相なら、引っくり返《けえ》った鮟鱇《あんこう》なんか見ちゃいられねえや。勝手にしやがれだ。ケッ……」
 親方はそのまま、勝手口から下駄を突っかけてプイッと出て行ってしまった。あとを見送ったお神さんがプーッと膨れ返った。
「あんな事を云って出て行ったよ。又、一軒隣へヘボ将棋で取られに行ったんだよ。妾《わたし》がアンマリ止めるもんだから、出て行くキッカケがなかったんだよ。呆れっちまうよホントに……将棋なんて何が面白いんだろうね。取られてばかりいて……芝居ならまだしもだけど……ねえ。万ちゃん……」
 万平はお膳の上にポロポロ涙を落しながら点頭《うなず》いた。そのままガツガツと茶漬飯を掻込んだ。

「ヨー色男」
 飯を喰った万平が、表二階の若衆部屋へ上って行くと、皆どこかへ遊びに行ってガランとした部屋の隅に、早くも床を取って寝ていた朋輩の粂吉《くめきち》が、頭を持ち上げてソウ云った。最前からの経緯《いきさつ》を聞いていたらしい。小声で云った。
「お神さん惚れてるぜお前に……」
 万平は返事をしなかった。そのまま自分も蒲団を敷いてモグリ込んだ。
 ……手前《てめえ》等に俺の気持が、わかるか……。
 といったような気持で、夜の更けるのを待った。
 万平は実際、真剣であった。眠るどころの沙汰ではなかった。別段、惚れているという訳ではないけれども、あの可愛い桃割髪《ももわれ》の娘が弐千円のお金と一所に、あの凄者《すごもの》らしい青年に見す見す引っ泄《さら》われて行くのを、
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