黙って見ている訳にはドウしても行かなかった。……のみならずあの中折のインバネスがタッタ一人でニヤリと洩らした、あの微笑の物スゴさばっかりは、どうしても忘れられなかった。あの笑い方はタダの笑い方じゃなかった。マンマと首尾よく女を欺し上げた事を喜ぶ以上の深刻な或る意味が含まれているようで、今まで見た芝居の悪党笑いのドレにも当てはまらないものである事を万平はハッキリと見て取っていた。何かしら今夜、あの材木置場《おきば》[#ルビは「材木置場」にかかる]で、あの娘の身の上に、大変な事が起りそうな気がする。それに気附いているのは、広い世界にタッタ俺一人なのだ。しかも、その俺の心配を誰も相手にしてくれる者は居ないのだ。……そうだ。俺は今夜、一番、生命《いのち》がけの冒険をやって、その大間違いを喰い止めなければならない主役《たてやく》なのだ……そう思うと万平は胸がドキドキして仕様がなかった。
 万平は元来、非常な臆病者であった。夜中に便所の窓から材木置場《おきば》[#ルビは「材木置場」にかかる]を覗いて見ただけでもゾッとする位であった。
 あんな光景《もの》を見なければよかった。今夜まで何も知らずに寝ていたらドンナにか気楽でよかったろう。明日《あす》の朝起きてみたら、皆騒いでいる。材木置場《おきば》[#ルビは「材木置場」にかかる]で可愛い娘が絞殺《しめころ》されている。どこの誰だか見当が附かない。その中《うち》に夕刊を見てからヤットわかる……といった方がドレ位、気苦労がないか知れやしない。
 だけど最早《もはや》、こうなっちゃ、絶対に知らん顔をしている訳に行かない。何とかして俺の腕一つで片付けなければならないが、しかしその何とかしようがサッパリ見当が付かない。向うから汽車が来る。こっちからも汽車が来る。打《う》っ棄《ちゃ》っておけば、衝突するにきまっている。ああ、俺はドウしたらいいだろう……といったような事を、夜具の中でグルグルグルグルと考えまわしているうちに、いつの間にかウトウトしたらしい。ハッと気が付いて頭を持上げてみると、広い部屋の中央にタッタ一つ光っている五燭の電燈の下に、皆帰って来て寝ているらしく、大浪を打っている夜具の下から赤茶気た、毛ムクジャラの太股を片ッ方くの字|型《なり》に投出している者。頭の上に腕を突出してポリポリと掻いているもの。ムニャムニャムニャと美味《おいし》そうに空気を喰って舌なめずりをしている者。今にも溺れ死にそうな声を出してイビキを掻いている者など……だいぶ夜が更けているらしい光景である。
 万平は今一度ハッとして胸をときめかした。寝過したかな……と思ってソッと起上って、出来るだけ静かに階段を降りて、土間を跣足《はだし》で台所に来てみると十一時半である。
 ……間に合った……と思うと万平はホッとした。同時に、どうしていいかわからないままタッタ一人で頭を掻き掻きそこいらを見まわした。
 フト思い付いて帳場の隅に立てかけてある親方用の、銀金具の短かい鳶口《とびぐち》に手をかけたが、又、思い直して旧《もと》の処に置いた。何かいい得物はないか……といった格好でそこいらを見まわしていたが、その中《うち》に右手の握り拳でボンと左の掌《てのひら》を打った。ニヤリと笑いながら、親方とお神さんが床を並べて寝ている茶の間に忍び込んだ。芝居で見覚えている通りの泥棒の腰付で、部屋の隅の衣桁《いこう》に掛けてあるお神さんの派手な下着と、昼夜帯をソーッと盗み出した。その足で抜き足、さし足一番奥の湯殿へ忍び込んで、ピッタリと戸締りをしてから、電燈をひねった。
 万平は鏡台の前に座って勇ましく双肌脱《もろはだぬ》ぎになった。鏡台の曳出《ひきだし》を皆開け放して、固練《かたねり》の白粉《おしろい》で胸から上を真白に塗りこくり、首筋の処を特に真白く、青光りする程塗上げた。鏡を覗きながら眉と、生《は》え際《ぎわ》を念入りに黛《まゆずみ》で撞《つ》き上げた。手首と足首を爪先まで白くする事も忘れなかった。それからお神さんの下着を着て昼夜帯を胸高に締め白い襟を思い切り突越した。それから鏡台の一番下の曳出《ひきだし》に詰まっているスキ毛を掴み出して元結《もとゆい》で頭にククリ付けた。その上から手拭を冠って今一度鏡を覗いてみた。
 それは余り上出来ではなかったが、ともかくも気味の悪いなりに女の恰好に見えたので、万平は相当満足したらしい。ニヤリと笑って立上りながら今度は背後《うしろ》姿を写してみた。それから電燈を消して、足探りで台所|草履《ぞうり》を穿いて、裏口へ出て、アトをピッタリと閉めた。
 風呂場の横の裏口には、細長いタイルの破片が二つ三つ落ちていた。その一つを拾った万平は、向うの壁に干してある、誰かの越中褌《えっちゅうふんどし》で包んでシッカリと紐《ひ
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