者はその時に笑って「スッカリ捨ててしまった時が拾い上げた時だ。しかし捨て切れるものじゃない。捨てても捨てても捨て切れないものが残ったまま一生を終るのが落ちだろう……」と笑ったことがある。それが実さんのヤハリ十七、八の時だ。
ところがこの頃、実さんに会って話しているうちに、「一声ってものは引っ張り加減がわからないので困るね」と言ったら、実さんはあの大眼玉をギョロ付かせて「一声はやさしいよ。次第が一番六カしい」と言った。それから間もなく或る人に次第を稽古しているのを聞いたら、何よりも先にそのモノスゴイ大きさの中から感ぜられる底知れぬ妖気に驚かされた。修羅道で敵手を喪った大将軍が、血刀を提げてクラ暗の中を見まわしているような悽愴たる感じが一パイに籠っていた。むろん曲柄とは全然合わない感じであったが、実さん自身は「こうしか謡えない」という顔をしていた。
実さんの中には芝居気もあればアテ気もある。お能気分はむろん充満している。しかし実さんはそんなものを皆タタキ殺して、その上に存在する絶対永久の虚無と闘っているのだ。うしろを振り向かずに前進しているのだ。しかもその虚無はあらゆる哲学、宗教、道徳
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