お蔭で、お前と結婚した……という結論になるのが、何となくイヤでたまらなかったので……。
ところがそれから一年足らず経過した、翌年の五月十日の或る曇った朝のこと……九州本線の下り列車は、いつもの通り風光明媚な香椎潟を横断して、多々羅《たたら》川の鉄橋を越えて、前の事件の背景《バック》になった、地蔵松原の入口で大曲りをすると、一直線に筥崎駅まで、ステキに気持ちのいいスピードをかけるのであったが、その線路の南側に展開する麦畑や、菜種畑のモザイクを、松原越しに眺めるともなく眺めて行くうちに、フト妙なものが私の眼に止まった。
松原の中に一町四方ばかりの墓原《はかはら》がある。その南の端の、すこし離れた処に在る、小さな白木の墓標の前に、赤と、青と、黒と、大小三匹の鯉を繋いだ、低い幟棹《のぼりざお》が立っている……と思ううちにその光景は、松の幹の重り合った蔭になってしまった。
……この頃死んだ男の子の墓だな……と思うと、私は何とも云えないイヤナ気持ちになった。ジッと眼を閉じると間もなく、薄暗く、ダラリと垂れた鯉幟《こいのぼり》の姿が、又もアリアリと瞼《まぶた》の内側に現われたので、思わず頭を強く振った。
しかし筥崎駅で汽車が停ると、私は妙に降りて見たくなった。それでも暫く躊躇して考えていたが、発車間際に思い切って飛び降りて見ると、今度は是が非でも今一度、あの墓原へ行かなければならないような気持になった。それは一種の新聞記者本能で、あの墓原の鯉幟が、何かしら面白い記事になりそうに直感されたからでもあったろう……が……一方から考えるとこの時既に、アノ鯉のぼりが象徴している不可思議な、悪魔的な魅力が、グングンと私の心を引き寄せていたのかも知れない。とうとう社へ出るのを後まわしにして、鉄道線路を十五六町程引返すと、最前の墓原へやって来た。
幟棹は墓地の最南端の、麦畑や村落を見晴らした処に樹《た》てられていた。二間ばかりの細い杉丸太の根元を、砂の中に埋めたもので、大小三匹の紙製の鯉は、いずれも数日前からブラ下っていたものらしく、上の方の一番大きな緋鯉《ひごい》も、その次の青も、その下の小さな黒鯉も、雨や夜露に打たれて色が剥《は》げ落ちたまま、互いにピシャンコになってヘバリ附き合っている。その中でも一番下の黒鯉は、半分以上白鯉になっているのに、上の二匹から滴り落ちた赤と青のインキをダラダラと浴びて、さながら血まみれになっているようで、白い砂の上に引きずった尾の周囲《まわり》は勿論のこと、幟棹の根元から、白木の墓標の横腹へかけていろんな毒々しい、気味わるい色の飛沫《したたり》を一パイに撒《ま》き散らしたまま、ダラリと静まり返っている。ただ、棹の上に取り付けてある矢《や》の羽型《はがた》の風車が、これも彩色を無くしたまま、時折り、あるか無いかの風を受けて廻転しかけては、ク――ック――ッと陰気な音を立てているばかり……空は一面の灰色に曇って、今にも降り出しそうである。
私は白砂の染まった処を踏まないように、グルリと遠まわりをして、小さな松の角材で建てられた、墓標の表面を覗いて見たが、又も奇怪な事実を発見したので、思わず唾《つば》を嚥み込んだ……真黒々《まっくろぐろ》になるほど浸《し》み流れた墨汁の中に「花房ツヤ子之墓」と書いた拙《まず》い楷書が威張っている。裏の文字を見ると「……四月三十一日卒……行年二十三歳……」とある……ツイ十日ばかり前に出来た仏様である。
……若い女の墓と……鯉幟と……心の中で繰り返しつつ、私は暫くの間石のように立ち竦《すく》んでいたが、やがて思い出したように横を向いて唾を吐いた。
それから二十分程経つと、私は筥崎の町役場へ行って死亡届を調べていた。そうして、それから又、十分ばかりの後には、筥崎八幡宮の裏手の森蔭に「花房敬吾」と標札を打った、長屋風の格子戸の前に突立っていた。
「……御免下さい……お頼み申します……御免下さい……」
と二三度繰り返すと、何の返事も無いままに、格子の中の玄関の破れ障子《しょうじ》がガタガタと開《あ》いた。
「……敬吾かえ……」
と云うシャガレた声が聞えると間もなく、一人の老婆が、障子に縋《すが》り付くようにして這い出して来た。
私は又もやドキンとさせられた。古い格子越しに見ると、その老婆は、黄色い胡麻塩《ごましお》頭が蓬々《ほうほう》と乱れて、全身が死人のように生白く、ドンヨリと霞んだ青い瞳を二ツ見開いて、一本も歯の無い白茶気た口を、サモ嬉しそうにダラリと開《あ》いている。身体《からだ》には垢だらけの手拭|浴衣《ゆかた》を着て、赤い細帯を捲きつけていたが、帽子を取った私の顔を見上げると、みるみる暗い、萎《しな》び込んだ表情にかわってしまった。
「ドナタサマデ……アナタ……」
と頭を下げつつゴックリと唾を呑んだ。
私は返事するのを躊躇した。この新聞材料《たね》にぶつかった最初から受け続けている、何とも云えないイヤナ感じを、ここでもっと突込んでみようか……それともこの辺で思い切ってしまって、もっと明るいキビキビした、ほかの材料《たね》に乗り換えようかと、一瞬間思い迷った。けれどもその時に私は、今までの惰力とでもいうべき一種の気持ちに押されて、ツイ間に合わせの返事をしてしまった。
「……エエ……敬吾君と以前御交際を願っておりました……和田というものですが……」
「オオオオ、それはそれは。まあお這入り下さいまし。お上り下さいまし。……アナタ……」
と云ううちに老婆は、古ぼけた畳の上を、赤ん坊のようにベタベタと這いながら引込んで行った。そのあとを見送って考えていた私は、やがて又、思い切って格子戸を開いた。
家は二畳の玄関と、一坪ほどの台所と便所と、八畳の座敷に押入れと床の間という、古ぼけた長屋みたような瓦落多普請《がらくたぶしん》であるが、家具らしいものはあまり見えない。座敷は両側とも雨戸を閉めて、蚊帳《かや》が一パイに釣ってあるので、化物屋敷のように暗い上に、黴臭《かびくさ》いような、小便臭いような臭気《におい》が、足を踏み込むと同時にムッとした。しかし老婆は暗闇に慣れていると見えて、平気で蚊帳の裾を這いながら、縁側から台所の方へまわって行った。私もそのあとから蚊帳を押《お》し除《の》け押し除けして、雨戸の内側の縁側の板張りへ出たが、そのついでに蚊帳の中を覗いてみると、寝床が三ツ敷いてあって、床の間の前に括《くく》り枕が一つと、台所側に高枕が二つ並べてある。その高枕と括り枕との間に、新らしいメリンスの小さな布団と、赤い枕がキチンと置いてあるのは赤ん坊の寝床であろう。夫婦と老婆が寝ていたものとも思われるが、妻女は死んでいる筈だから、寝床が三つあるのはヘンテコである。しかも役場の戸籍面には妻女の死亡が届け出てあるだけで、赤ん坊の事は何とも書いてないのに……アノ鯉幟……この小さな新しい布団……おまけに今は真ッ昼間ではないか……。
私は進退|谷《きわ》まったような気持ちで、帽子を持ったまま縁側に跼《しゃが》んだ。白昼《ひるま》でありながらソンナ気がチットモしない。雨戸を洩れる光線が、月の光りのように白く見えて、ヒッソリとした静けさが身に迫って来る。今にも突然に老婆がワアと云って振り返ったら……なぞとあられもない事を考えているうちに、台所に首を突込んでゴソゴソやっていた老婆は、片手に茶碗を持ちながらヨタヨタと這いもどって来た。
「ヘイ……つめたいお茶を一ツ……おあてものも御座いませんで……アナタ……」
「……ヤッ……どうもありがとう……どうぞお構いなく……」
と大きな声で云いながら、私は余儀なく板張りに坐り込んだ。老婆も私とさし向いに坐ったが、瘠せ枯れた白い手で襟元を直して、蓬々《ほうほう》と逆立《さかだ》った髪毛《かみ》を撫で上げた。戸籍面によるとこの老婆はオシノといって、敬吾の祖母に当る嘉永生れの高齢者であるが、耳も眼もシッカリしているようで、気持ちも存外確からしい。
私は心安いような態度で茶碗を口に近づけて、一《ひ》ト口飲む真似をした。そうしてブッキラボーに口を利いた。
「敬吾君はいつ頃お帰りで……」
老婆は眼をショボショボとしばたたいた。右の眼の下の皺《しわ》を、口と一緒に歪《ゆが》まして、ペロリと一つ舌なめずりをしたが、やがて又、淋しい、たよりないシャガレ声を出して、
「……ハ――イ。もう帰る頃と思いますが……アナタ……」
と云いつつ私を見詰めると、モクモクと口を動かした。その疑うような白い眼付きを見ると、私はたまらない程奇妙な気持ちになったので、新聞の事も何も忘れてしまって、取って附けたようにお辞儀をした。
「それじゃ……いずれ又……」
「……ア……さようで……アナタ……」
そう云いながら老婆は、何かもっと云いたいような顔付きをしたが、又モクモクと口を動かすと、黙り込んでしまった。
「ドウゾお構いなく、いずれ又そのうちに……どうぞ宜《よろ》しく……」
と切れ切れに云い云い玄関に出て、靴に足を突込むや否や表に飛び出して、格子戸をピシャリと閉めた。オシノ婆さんが這いずりながら、追っかけて来るような気がしたので……。
それから一町ばかりのあいだを、スッカリ失望した気持ちになって、小急ぎに歩いた私は、八幡《はちまん》前の賑やかな通りへ出る四五軒手前の荒物屋の前まで来ると、フト立ち止ってその店の中へ這入った。
「バットがありますか」
「入《い》らっしゃいませ」
とステキに明るい声が奥の方からして、デブデブに肥った四十恰好のお神《かみ》さんが、乳呑み児を横すじかいに引っ抱えながら出て来た。その脂切《あぶらぎ》った笑い顔を見ると、私はホッと救われたような気持ちになって、バットを三個《みっつ》ばかり受け取ったが、とりあえず一本引き出して吸口をつけながら、こころみに聞いて見た。
「この向うに花房って家《うち》がありますね」
「ヘエ……」
と私の顔を見たお神さんは、急に笑い顔をやめて、大きくうなずいた。
「あの家《うち》のお嫁さんは死んだんですか」
「ヘエ……」
と云いながらお神さんは、一層|魘《おび》えた表情になって、唾をグッと嚥《の》み込んだ、私は占《し》めたと思いながら帳場に近づいて、火鉢の炭団《たどん》にバットを押しつけた。
「マッチでお点《つ》けなさいまっせえ。炭団では火がつき悪《にく》う御座いますけん」
と云ううちにお神さんは、私の横にベッタリと腰をかけて、マッチの箱をさし出した。このお神さんはあの家《うち》の事を喋舌《しゃべ》りたがっているナ……と私は直覚した。
それから根掘り葉掘りして、私一流の質問を続けてみると、果してお神さんの説明は、一々興味深い新聞種になって行った。但、筋は極めて単純であった。
花房というのは現在、福岡の電燈会社の工夫をやっている男で、昨年の春にオシノという高齢の祖母と、若い嫁女《よめじょ》のツヤ子を連れて、この町内の現在の家に引越して来た者であるが、夫婦仲は云うまでもなく、オシノ婆さんと嫁女のオツヤとの仲が、親身の間柄でも珍らしいくらい睦まじいので、近所の評判になっていた。敬吾がつとめに出かけた留守中に、嫁女のツヤ子がオシノ婆さんの手を引いて、程近い八幡様の境内を散歩させたり、お湯に連れて行く光景などを、近くの人はよく見かけた。敬吾が一時やめていた晩酌を、オシノ婆さんが嫁女にすすめて、無理に又はじめさせたというような噂までも伝わった。
ところがそのうちに嫁女が姙娠したことがわかると、オシノ婆さんは八幡様へ参詣《さんけい》しなくなった。
「お前が転びでもすると私が敬吾に申訳けがない。孩児《ややこ》の着物も私が縫うてやるけに、成るだけ無理をせんようにしなさい。その代りキット男の子を生みなさいよ」
と寝ても醒めても云っていた。嫁女も素直に笑いながら、
「ハイ……キット男の子を生みます」
と請け合っている……という話を、亭主の敬吾が煙草を買いに来たついでに、お神さんに話して聞かせた。
するとそのうちに嫁女がチブスに
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