とるんだ。……というのは……こいつも絶対に書いては困るがね。この記事を夕刊の佐賀版で見た時枝のおやじ[#「おやじ」に傍点]が、昨夜《ゆうべ》のうちに佐賀から自動車を飛ばして来て、今朝《けさ》暗いうちに僕をタタキ起したんだ。人品のいい、落付いた老人だったので、僕もうっかり信用して、ちょうどええところだから大学の解剖室へ行って、お嬢さんの屍体を見て来て下さい。貴下《あなた》のお子さんときまれば、解剖をしないでそのまんま、お引き渡しをしてもええからというので、巡査を附けてやった訳だ」
「なるほど……それから……」
「ところがそのおやじが、轢死当時の所持品や何かを詳しく調べた揚句《あげく》に、娘の屍体を一眼見ると、これはうちの娘では御座らぬと云い出したもんだ」
「……フーン……その理由は……」
「その理由というのはこうだ。……うちの娘は元来勝気な娘で、東京へ行って独身で身を立てる、女権拡張に努力するという置手紙をして出て行った位で、そんな不品行《ふしだら》をするような女じゃない。新聞の写真もイクラカ似とるようだが、ヨシ子では絶対にありませぬ。家出したのは四年前じゃが、チャンとした見覚えがあるから、間違いは御座らぬと云い切って、サッサと帰って行きおった」
「……馬鹿な。そんな事でゴマ化せるものか……」
「……涙一滴こぼさず。顔色一つかえずに、僕の前でそう云うたぞ」
「ウーン。ヒドイ奴だな。それから……」
「ウン。それからこれは昨日の事だが、女の下駄を売った大浜の金佐商店に当らせて見ると、売った奴は店の小僧で、しかも昨日の朝早くだったので、服装や顔立ちがサッパリ要領を得ない。あとから新聞の写真を持って行って見せると、丸髷《まるまげ》になっとるもんだからイヨイヨ首をひねるんだ」
「フーン。困るな」
「それから早川の下宿のお神《かみ》も新聞の写真を見て、早川さんの方は間違いないが、女の方は誰だかわからんようです……とウヤムヤな事を云いおるんだ。念のために佐賀署へ電話をかけて聞いて見ると、時枝の家族も口を揃えて、あの写真は家出したヨシ子さんではないと云うとるゲナ。しかし市中では君の新聞が引張り凧になっとるチウゾ」
「そうだろうとも……フフン……」
「つまり時枝のおやじは、屍体の顔がメチャメチャになっとるのを幸いに、家の名誉を思うて、娘を抹殺しようと思うとるんだね」
「フーン。そんなに名誉ってものは大切なものかな」
「何しろ佐賀県随一の多額納税だからナ」
「なおの事残酷じゃないか」
「もっとヒドイのはこっちの連中だ。第一色魔の早川を昨夜下宿で引っ捕えて見ると、そんな女と関係した事は無い。夕刊に載っている女は、昨夜手切れの金を遣って別れた柳川ヨシエというので、自分と関係する以前に姙娠しとった事が判明したから追い出したものだが、どこの生れだか本当の事はわからん。ホンの一時の関係だと強弁するし、産婆学校長の姉歯医学士も、そんな世話をした覚えは絶対に無いと突き放すのだ」
「ダラシがないんだナ君等の仕事は……」
「証拠が無い以上、ドウにも仕様がないじゃないか。おまけに今朝《けさ》になってから、早川の下宿のお神の奴が、御叮嚀に筥崎署へ電話をかけて、新聞の写真の時枝ヨシ子さんは、早川さんと一緒に居た柳川ヨシエさんに違いありませんが、時枝という苗字ではありません。その柳川ヨシエさんは、昨日早川さんと別れ話が済んで、どこかへ行かれましたそうです。いずれにしても柳川ヨシエさんを私が、時枝のお嬢さんと云ったおぼえはありませんから、ドウゾそのおつもりで……という白々しい口上だったそうだ。まるで警察が、寄ってたかって冷かしものにされとるようなあんばい[#「あんばい」に傍点]だ」
「早川医学士と、時枝のおやじと、轢死女の血を取って胎児の血液と比較すれば、すぐにわかる話じゃないか」
「他殺か何かなら、それ位のことをやって見る張り合いがあるけども、自殺じゃ詰らんからネエ……まだ他に事件が沢山《うん》とあるもんだからトテも忙がしくて……」
「早川や姉歯は今どうしている」
「どうもしとらんさ。そのうちに柳川ヨシエの行先がわかったら知らせます……そうしたら轢死女と違うかどうか、おわかりになりましょう……とか何とか吐《ぬ》かしおって……」
「君の方じゃそれ以上突込まないのか」
「突込んでも無駄だと思うんだ。おれの睨んどるところでは、みんな昨日から昨夜のうちに、いくらか宛《ずつ》、時枝のおやじに掴ませられとるらしいんだ。その黒幕はやっぱりアノ姉歯の奴で、君の書いた夕刊を見るなり、佐賀の時枝へ電話か何か掛けおったんだろう」
「そうだ。それに違いないよ」
「君の新聞に書かれる前に、警察《こっち》の手で引っぱたけば一も二もなかったんだが、すっかり手を廻しくさって……口を揃えて新聞記事を事実無根だと吐《ぬか》すんだ」
「失敬な……」
 と云いさして私は唇を噛んだ。気がつくと二人はいつの間にか工科前の終点で電車を降りて、往来のまん中で立話をしているのであったが、そういう私の顔をジッと見ていた大塚警部はチョット四囲《あたり》を見まわすと、黄色い白眼をキラキラ光らせながら、一層顔を近付けた。
「君の手で確かな手証《てしょう》を挙げてくれんか……エエ?……推定でない具体的な奴を……そいつを新聞に書く前に、僕の手に渡してくれれば、スッカリタタキ上げて君の方の特別記事《とくだね》に提供するがね。君の手から出たタネだという事も、絶対秘密にするのは無論の事、将来キット恩に着るよ。あの記事が虚構《うそ》となったら君の新聞でも困るじゃろう」
 私は唸《うな》り出したいほどジリジリするのを押えつけて、無理に微笑した。
「ウン……いずれ編輯長と相談して研究して見よう」
「ウン、是非頼むよ。ドウセイ時枝の娘に間違いはないんだから……話がきまったら電話をかけて呉給《くれたま》え。屍体でも何でも見せるから……ウンウン……」
 大塚警部は一人で承知したように、形式だけ片手をあげると、クルリと私に背中を向けて、サッサと筥崎署の方へ歩いて行った。そのうしろ姿を見送りながら私は、昨日のまま上衣《うわぎ》のポケットに這入っている、ヨシ子の名刺と質札を、汗ばむ程握り締めた。いつの間にか私自身が、大塚警部の手中に握り込まれていることに気が付いて……。
 私は急に身を飜すと、案内知った法文学部の地下室へ駈け込んで、交換嬢に本社の編輯長を呼び出してもらった。
「モシモシ。僕は今法文学部の交換室からかけているんですがね。昨日の夕刊の記事ですね。あれは取消を申込んで来る奴があっても、絶対に受け付けないで下さい」
 編輯長の上機嫌の声が受話機に響いた。
「ああ。わかっている。今朝六時頃にネエ。佐賀の時枝のオヤジが僕の処へ駈け込んで、取消しの記事を頼んだよ。それから九大の寺山博士がツイ今しがた本社《ここ》へやって来て、早川という男は自分の処に居るには居るが、色魔云々の事実は無いようである。それから、これは眼科の潮《うしお》教授の代理として云うのだが、時枝という看護婦が眼科に居た事もたしかだが、四箇月ばかり前からやめているので、新聞の写真と同一人であるかどうかは不明だ……といったような下らない事をクドクド云っていたが、どっちもいい加減にあしらって追い返しておいたよ」
「感謝します」
「あとの記事は無いかい」
「……あります……時枝のおやじと九大内科部長があなたの処へ揉《も》み消しに来た事実があります」
「アハハハ、一本参ったナ。しかし何かそのほかに時枝の娘に相違ないという確証はないかい」
「あります……ここに持っています。死んだ娘が悲鳴をあげる奴を……」
「そいつは新聞に出せないかい」
「出してもいいですけど屍体を掻きまわして掴んで来たものなんです。検事局へ引っぱられるのはイヤですからネエ」
「いいじゃないか。あとは引受けるよ」
「……でも……あなたと一緒に飲めなくなりますから……」
「アハハハハ。そうかそうか。サヨナラ……」
「……サヨナラ……」

 それから三四十日経った或る蒸し暑い晩の事、私は東中洲《ひがしなかす》のカフェーで偶然に私服を着た大塚警部に出会《でっくわ》した。警部は誰かを探しているらしかったが、私が声をかけると、すぐに私の卓子《テーブル》に来てビールを呼んだ。その顔を見ているうちにフト思い出して尋ねて見た。
「時にどうしたい……アノ事件は……」
「……アノ事件?……ウンあの事件か。あれあアノマンマサ。医学士は二人とも君のお筆先に驚いたと見えて、その後神妙にしているよ」
「イヤ。女の身許の一件さ」
「ウン。あれもそのまんまさ。今頃は共同墓地で骨になっているだろうよ。可哀相に君のお蔭で親に見棄てられた上に、恋人にまで見離された無名の骨が一つ出来たわけだ」
「……………………」
「何でも女が線路にブッ倒れてから間もなく、色男の医学士らしい、洋服の男が馳けつけて、懐中や帯の間を掻きまわして、証拠になるものを浚《さら》って行ったという噂も聞いたが、その時刻にはその色男は、チャント下宿に居ったというからね。どうもおかしいんだ」
「……ウーン……おかしいね……」
「……とにかくあの別嬪《べっぴん》は、君が抹殺したようなものだぜ。その色男というのは君だったかも知れんがネ……ハッハッハッまあええわ。久し振りに飲もうじゃないか」
 二人はそれから盛んにビールを飲んだが、私は妙に大塚警部の云った事が気にかかって、どうしても酔えなかった。しまいには自棄気味《やけぎみ》になって、警部が出て行くのを待ちかねてウイスキーを二三杯、立て続けに引っかけると、ヤット睡くなって来たが、ウトウトすると間もなく眼の底の空間に、空色のパラソルが一本、美しく光りながら浮き出した。そうしてフワリフワリと舞い上りつつ左手の方へ遠く遠く、小さく小さく消えて行った……と思うと又一つ同じパラソルがもとの処にホッカリと浮かみ出したが、それがだんだんと小さくなって、左手の方へ消えて行くのを見送るたんびに、私は何ともいえない、滅入《めい》り込むような恐怖を感じはじめた。
 私はハッと眼を見開いて、キョロキョロとそこいらを見まわした。そうしてその恐ろしさを打ち消すために、もう一杯、又一杯とグラスを重ねたが、飲めばのむ程その幻影がハッキリして来るのであった。しまいには美しいパラソルが、あとからあとから浮き出して、数限りなく空間を乱れ飛ぶようになった。
 そのめまぐるしい空間を凝視しながら、私はガタガタとふるえ出した。

     その二 濡《ぬ》れた鯉《こい》のぼり

 前のパラソル事件以来、私はピッタリと盃を手にしなくなった。それでも時折りはたまらなく咽喉《のど》が鳴るのであったが、飲めば必ず酔う……酔えばキット空色のパラソルの幻影《イリュージョン》を見る……ガタガタと慄え出す……という不可抗力のつながりに脅かされて、とうとう絶対の禁酒状態に陥ってしまったので、そんな事を知らない連中《みんな》を、かなり不思議がらせたらしい。何しろ飲み旺《さか》っている絶頂だったので、以前の飲み仲間なぞは、一時真剣に心配したり冷かしたりして、手を換え品を換えて詰問したものであるが、私は唯ニヤニヤと笑うばかりで一言も説明らしい説明をしなかった……否、説明したくなかった……というのが本当の説明であったろう。そうしてそのお蔭という訳でもないが、事実はやはりそのおかげ[#「そのおかげ」に傍点]に違いなかったであろう、私は間もなく社長の媒妁《ばいしゃく》で妻を迎えたのであった。
 私の禁酒を不思議がっていた連中は、そこでやっと訳がわかったような顔をして、盛んに私を冷かしたものであった。けれども私は依然としてニヤニヤのまま押し通した。そうして福岡から二里半ばかり東北の香椎《かしい》村に、二人切りの新世帯を作って、そこから汽車で福岡へ通勤することにしたが、しかし私は、その新妻から尋ねられた時にも、やはりニヤニヤと笑った切り「酒が飲めなくなったわけ」を説明しないで済ましたのであった……パラソルの女を見殺しにした
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