空を飛ぶパラソル
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)空《くう》を飛ぶ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)新聞|記事《だね》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「┐」の中に「サ」、屋号を示す記号、188−7]
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     その一 空《くう》を飛ぶパラソル

 水蒸気を一パイに含んだ梅雨《つゆ》晴れの空から、白い眩《まぶ》しい太陽が、パッと照り落ちて来る朝であった。
 ちょうど農繁期で、地方新聞の読者がズンズン減って行くばかりでなく、新聞|記事《だね》の夏枯れ季節《どき》に入りかけた時分なので、私のいる福岡時報は勿論のこと、その他の各社とも何かしら読者を惹き付ける大記事は無いか……洪水《おおみず》は出ないか……炭坑は爆発しないか……どこかに特別記事《とくだね》は転がっていないか……と鵜《う》の目|鷹《たか》の目になっていた。そんなようなタヨリナイ苛立たしい競争の圧迫を、編輯長と同じ程度に感じていた遊撃記者の私は、ツイこの頃、九大工学部に起ったチョットした事件を物にすべく、福岡市外|筥崎町《はこざきちょう》の出外れに在る赤|煉瓦《れんが》の正門を、ブラリブラリと這入《はい》りかけていたのであったが、あんまり暑いので、阿弥陀にしていた麦稈《むぎわら》帽子を冠り直しながら、何の気もなく背後《うしろ》をふり帰ると、ハッとして立ち止まった。
 工学部の正門前は、広い道路を隔てて、二三里の南に在る若杉山の麓《ふもと》まで、一面の水田になっていて、はてしもなく漲《みなぎ》り輝く濁水《にごりみず》の中に、田植笠が数限りなく散らばっている。その田の中の畦道《あぜみち》を、眼の前の道路から一町ばかり向うの鉄道線路まで、パラソルを片手に捧げて、危なっかしい足取りで渡って行く一人の盛装の女がいる。
 そのパラソルは一口に云えば空色であるが、よく見ると群青《ぐんじょう》と、淡紅色《ときいろ》の、ステキに派手なダンダラ模様であった。小倉縮《こくらちぢみ》らしいハッキリした縞柄《しまがら》の下から、肉付きのいい手足と、薄赤いものを透きとおらして、左手にビーズ入りのキラキラ光るバッグを提《さ》げて、白|足袋《たび》に、表付きの中歯《ちゅうば》の下駄を穿《は》いていたが、霖雨《ながあめ》でぬかるむ青草まじりの畦道《あぜみち》を、綱渡りをするように、ユラユラと踊りながら急いで行くと、オールバックの下から見える、白い首すじと手足とが、逆光線を反射しながら、しなやかに伸びたり縮んだりする。その都度に、華やかな洋傘《パラソル》の尖端《さき》が、大きい、小さい円《まる》や弧を、空《くう》に描いて行くのであった。
 そこいらの田に蠢《うご》めいていた田植笠が、一つ二つ持ち上って、不思議そうにその女の姿に見惚《みと》れはじめた。……と見るうちに、左手の地蔵松原の向うから、多々羅《たたら》川の鉄橋を渡って、右手の筥崎駅へ、一直線に驀進して来る下り列車の音が、轟々《ごうごう》と近づいて来る気はいである。それにつれて女の足取りも、心持ち小刻みに急ぎ始めたように見えた……。
 ……私は今一度ハッと胸を躍らした。思わず、
「……止めろッ……轢死《れきし》だッ……」
 と叫びかけたが、その次の瞬間に私は又、グッと唾《つば》[#「唾《つば》を」は底本では「睡《つば》を」]嚥《の》み込んだ。……これは新聞|記事《だね》になるな……と思った次の瞬間にはもう正門前の道路を、女の行く畦道と直角の方向に引返していた。
 そうしてその取付《とっつ》きの百姓家の蔭から、田に添うた桑畑の若い葉の間を、女と並行した方向に曲り込むと、急に身を伏せて、獲物を狙う獣《けもの》のように、線路の方へ走り出したが、桑畑と線路との境目に在る、狭い小川を飛び越えた時には、スッカリ汗まみれになって、動悸が高まって、眼が眩《くら》みそうになっていた。
 女はもうその時に田の畦を渡りつくして、半町ばかり向うの線路に出ていたが、軌条《レール》の横の狭い砂まじりの赤土道を、汽車の来る方向に、さり気なく、気取った風付《ふうつ》きで歩いて行くようすである。
 勢込んで来た私は、そうした女の態度を見ると、ちょっと躊躇して立ち止まった。覚悟の轢死じゃないのかしら……と思って……。
 ……と思う間もなく、真正面《まっしょうめん》に横たわる松原の緑の波の中から、真黒な汽鑵車が、狂気のように白い汽笛を吹き立てつつ、全速力で飛び出して来た。機関手が女の姿を発見したに違いないのだ。
 それと見た女は洋傘《パラソル》を、線路の傍の草の上に、拡げたままソッと置いた。下駄を脱ぎ揃えて、その上にビーズ入りのバッグを静かに載せた。そうして右手で襟元を繕《つくろ》いながら、左手で前裾をシッカリと掴むと、白足袋を横すじかいに閃《ひら》めかして、汽鑵車の前に飛び込もうとしたが、線路の横の砂利に躓《つまず》いて、バッタリと横向きに倒れた。その拍子に右手で軌条《レール》を掴んで起き上りかけたが、何故か又グッタリとなって、軌条《レール》のすぐ横の枕木の上に突伏した。そのまま白い両手を向うむきに投げ出して、肩を大きく波打たして、深いため息を一つしたように見えた。
 私はそれを石のように固くなったまま見とれていたように思う。身動きは愚か、瞬き一つ出来ないままに……と思う間もなく女の全身に、真黒な汽鑵車の投影《かげ》が、矢のように蔽いかかった。するとその投影《かげ》の中から、群青《ぐんじょう》と淡紅色《ときいろ》のパラソルが、人魂《ひとだま》か何ぞのようにフウーウと美しく浮き出して、二三間高さの空中を左手の方へ、フワリフワリと舞い上って行ったが、その方にチラリと眼を奪われた瞬間に、虚空を劈《つんざ》く非常汽笛と、大地を震撼する真黒い音響とが、私の一尺横を暴風《はやて》のように通過した。
 思わず耳と眼を塞《ふさ》いで立ち竦《すく》んでいた私は、その音響が通過すると直ぐに又、新聞記者の本能に立帰った。編上靴《あみあげぐつ》を宙に踊らせて、二十間ばかり向うに投げ出されている、屍体の傍へ駈けつけた。線路の左右の田の中から、訳のわからない叫び声があとからあとから起るのを聞き流しながら……。
 まだ生きているのと同様に温かい女の屍体を、仰向けに引っくり返して見ると、どんな風にして車輪にかかったものか、頭部に残っているのは片っ方の耳と綺麗な襟筋だけである。あとは髪毛《かみのけ》と血の和《あ》え物《もの》みたようになったのが、線路の一側《ひとかわ》を十間ばかりの間に、ダラダラと引き散らされて来ている。その途中の処々に鶏《にわとり》の肺臓みたようなものが、ギラギラと太陽の光を反射しているのは脳味噌であろうか。右の手首は、車輪に附着《くっつ》いて行ったものか見当らず、プッツリと切断された傷口から、鮮血がドクリドクリと迸《ほとば》しり出て、線路の横に茂り合った蓬《よもぎ》の葉を染めている。その他の足袋の底と着物の裾に、すこしばかり泥が附いているだけで、轢死体《れきしたい》としては珍らしく無疵《むきず》な肉体が、草の中にあおのけに寝て、左手《ゆんで》はまだシッカリと前裾を掴んでいた。
 私はチラリと汽車の方をふり返りながら、その左手を着物から引き離して検《あらた》めてみた。手の甲も、掌《てのひら》もチットも荒れていないようであるが、中指の頭にヨディムチンキが黒々と塗ってあるのに、そこいらが格別|腫《は》れても傷ついてもいないところを見ると、刺《とげ》か何かを抜いたあとを消毒したものであろう。して見ればこの女は看護婦かな……と思い思い手早く胸を掻き開いてみると、白く水々しく光る乳房と、黒い、紫がかった乳首があらわれたが、その上を、もう、一匹の大きな黒蟻が狼狽して駈けまわっていた。
 さては……と私は息を詰めた。すぐに安物らしい白地の博多帯をさぐってみると……どうだ……ムクリムクリ……ヒクリヒクリと蠢く胎動がわかるではないか……たしかに姙娠五箇月以上である。なお序《ついで》に、袂《たもと》と、帯の間を撫でまわしてみると、筥崎から佐賀までの赤切符の未改札が一枚と、小型の名刺に「早川ヨシ子」「時枝ヨシ子」と別々に印刷したのが十枚ばかりずつ白紙に包んだのが、帯の間から出て来た。
 その名刺をポケットに落し込みながら、私は取りあえず凱歌を揚げた。早川というのは九大医学部の寺山内科に居る、医学士の医員で、記者仲間に通った色魔に相違なかった。その背後には姉歯《あねば》なにがしという産科医がいて、何かしら糸を操っているという噂まで、小耳に挟んでいる。又、時枝ヨシ子というのは、これも同大学の眼科に居る有名な美人看護婦ではないか。……二人の関係は二三箇月前にチラリと聞いた事があるにはあったが、評判の美人と色魔だけに、いい加減に結び付けた噂だろう……なぞと余計なカン[#「カン」に傍点]を廻《ま》わしていたのが悪かった。もうここまで進んでいたのか……と思い思い今度は下駄を裏返してみると、まだ卸《おろ》し立てのホヤホヤで、福岡市|大浜竪町《おおはまたてちょう》金佐《かねさ》商店という商標《マーク》が貼ってあって、踵《かかと》の処に※[#「┐」の中に「サ」、屋号を示す記号、188−7]と刻印が打ち込んである。次にビーズ入りのバッグを開いてみると、新しいハンカチが二枚と、六円二十何銭入りの蟇口《がまぐち》と、すこしばかりの化粧道具を入れた底の方から、柳川ヨシエという名宛《なあて》の質札が二枚出た。お召《めし》のコートと、羽織と、瓦斯《ガス》の矢絣《やがすり》の単衣物《ひとえもの》と、女持のプラチナの腕時計の四点を、合計十八円也で、昨日《きのう》と、一昨日《おととい》の二日にわけて、筥崎|馬出《まいだし》の三桝《みます》質店に入れたものである。
 私は又も、その質札をポケットに突込みながら、二度目の凱歌を揚げた。……これだけのタネを握り込んで、三段や四段の特別記事が書けなければ、俺は新聞記者じゃない……むろん警察や、同業《なかま》の奴等は指一本だって指せやしないだろう……占めたナ……と奥歯を噛み締めながらも、何喰わぬ顔を上げて、そこいらを見まわした。
 私の周囲には二三人の田植連《たうえれん》が、魘《おび》えた顔をして立っているきりである。一気に筥崎駅へ駈け込んだ列車の窓からは、旅客の顔が鈴生《すずな》りに突き出ていて、そこから飛び降りた二三人の制服制帽が、線路づたいに走って来るのが見える。その外にもう一人、サアベルを掴んだ警官らしい姿も、後《おく》れ馳《ば》せにプラットホームから駈け降りて来るようであるが、しかしまだ四五町の距離があるから、私の顔を見知られる心配はない。
 私は靴の踵に粘り付いた女の血を、蓬《よもぎ》の葉で拭いながら悠々と立ち上った。はるか向うの青田の中に落ちたパラソルを見かえりもせずに、今しがた女が伝って来た畦道の、下駄の痕《あと》を踏み付け踏み付け、平気な顔で工学部の前に引返した。みるみる殖《ふ》えて行く、線路の上の人だかりを横眼に見ながら、手近い法文科の門を潜って、生徒がウロウロしている地下室を通り抜けて、人通りのすくない海門戸《かいもんど》に出ると、やっと上衣を脱いで汗を拭いた。ここまで来れば、もう捕まる心配は無いからである。ついでに腕時計を見るとチョウド十時半であった。
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 ……夕刊の締切りまでアト二時間半キッカリ……その中《うち》で記事を書く時間をザット一時間と見ると……質屋にまわり込む時間は先ずあるまい……プラチナの腕時計がチットおかしいとは思うけれど……。
 ……色魔の早川や、黒幕の姉歯《あねば》にも会わない方が上策だろう……わざわざ泣き付かれに行くようなもんだからナ……。一つ抜き討ちを喰《くら》わして驚かしてくれよう……。
 ……帰り着くまで降り出さなけあいいが……。
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