罹《かか》って、今から十日ばかり前の事、五月目の男の子を死産して死ぬると、亭主の敬吾は何と思ったか、通夜の晩から、大酒を飲んで管《くだ》を捲きはじめた。
「……嬶《かかあ》は死ぬが死ぬまで譫言《うわごと》に、鯉幟のことばかり云うとったから、法事が済んだら一つ素晴らしいのをお墓に立ててやろうと思う。それが一番のお供養だナアお祖母さん」
 と大声で何遍も何遍も繰り返すので、通夜に来ていた近所の人々は、ジッとしていられないような気持になった。胎児と母親の野辺送りをした帰りがけにも、敬吾はトロンとした眼で、白木の墓標をふりかえって、
「もうじきに大きな奴を立ててやるぞ。アハハハハハ」
 と高笑いをしたので皆、顔をそむけたという。
 けれども敬吾は、その帰り道にどう気がかわったものか、郵便局に残っていた二百円ばかりの貯金を引き出すと、その夜《よ》から行方を晦《くら》ましてしまった。何しろ家《うち》には高齢のオシノ婆さんが置き去りにして在るので、近所の者も心配して、二三人手を分けて行方を探しているが、今のところ皆目わからない。柳町の遊廓で見かけたという者もあるが、それも今では当てにはならなくなっている。一方にオシノ婆さんは、少しばかり残っている米で粥《かゆ》を作って喰べているが、近所の人が同情をして物を呉れても、
「いずれ近いうちに敬吾が帰って来ましょうから、お構い下さいませんように……ヘエ……アナタ……」
 と云って突返すので、
「折角《せっかく》ヒトが心配してやっているのに……」
 と面憎《つらに》くがっている者もある。……ところがこの婆さんは、チョット見たところシッカリしているようであるが、実はもうすっかり耄碌《もうろく》しているので、雨戸の隙間から覗いてみると、夜も昼も蚊帳を釣り放して、いつもの通りに床を取った上に、自分が縫った「孩児《やや》さんの赤い布団」まで並べて待っている様子なので、近所の者はトテモ気味悪がっている。ことに依ると夫婦と子供三人で、出かけたあとの留守番をしているつもりかも知れないが、誰もそんな事を尋ねて見るものは無い。何にしても当り前でない婆さんが、タッタ一人で煮焚《にた》きをするので、まことに不要心だから、警察に届けようか、どうしようかと相談しいしい今日まで来ている。尤《もっと》も、もう二三日すると二七日《ふたなぬか》が来るから、事に依ると敬吾が帰って来るかも知れぬが……というのがお神さんの話の概要であった。
 私は礼を云って荒物屋を出ると又引っかえして、花房の近所をまわって、二三の事実を確かめてから本社へ帰った。
「……死んだ愛妻と胎児の墓に、鯉幟を立てて行方を晦《くら》ました男……あとに餓死を待つ高齢の祖母……」
 といったような記事が、その墓の鯉幟と、蚊帳の前に坐った老婆の写真と一緒に出たのは、あくる日の朝刊であった。それを台所で読んだ私の妻が、
「マア。誰がこんなイヤな記事を書いたんでしょう」
 と云ったので私は思わず苦笑させられた。

『記者様――
[#ここから1字下げ]
私ハ、アナタノ新聞ノ記事ヲ読ンデカラ眼ガ醒メマシタ。私ハ妻子ヲ失ッタ悲シサノタメニ酒色ニ溺レテ、恵ミ深イ大恩アル祖母ノ事ヲ忘レテオリマシタ。柳町、大浜ト飲ミマワッテ、化粧ノ女ト遊ビ狂ウテオリマシタ。ソウシテ、アノ新聞記事ヲ見マシテカラ、ヤット昨晩、家ニ帰ッテ見マシタラ、祖母ハ蚊帳ノ釣手ニ、妻ノ赤イ細帯ヲカケテ、首ヲククッテ死ンデオリマシタ。足ノ下ニ御社《おんしゃ》ノ新聞ノ、アノ写真ノトコロガ拡ゲテ置イテアリマシタ。誰カ近所ノ親切ナ人ガ投ゲ込ンデ下サッタノデショウ。
記者様――
アノ鯉幟ノ棹ハ、私ガ酔ッタ勢イデ立テタモノデスガ、ソレガ記者様ノオ眼ニ止マッテ、コンナ不孝ナ恥ヲ晒《さら》ソウトハ夢ニモ思イマセンデシタ。シカシ私ハ、ドナタ様モ怨ミマセン。何モカモ、私ガ修養ガ足リナイタメニ、起ッタ事デス。私ハ皆様ニ対シテ申訳アリマセンカラ自殺シマス。ドウゾコノ大馬鹿者ノ最期ヲ、アナタノ筆デ、デキルダケ大キク世間ニ発表シテ下サイ。御社ノ御繁栄ヲ祈リマス。
[#ここで字下げ終わり]
  五月十一日[#地から2字上げ]花房敬吾

  福岡時報 記者様』

 編輯長は、洋半紙に鉛筆で書いたこの手紙を、私の前に投げ出しながらフフンと笑った。
「ツイ今しがた来たんだ。その男はその手紙をポストに入れると、嬶《かかあ》の墓に参って、幟の細引を首に捲いて、鯉と一緒にブランコ往生をしていたんだ。二時間ばかり前に、あの松原を通った下り列車の乗客が見つけたんだがね、足下にウイスキーの小瓶がタタキ付けたったそうだよ……ハハハハハ」
 私は茫然として編輯長の顔を凝視した。編輯長はやはり冷笑を浮めながら云った。
「君の筆もだいぶ立つようになったね」
 私は笑いもドウもし得ないまま、何がなしにうなだれてしまった。帽子を片手にスゴスゴと編輯室を出て、一気に階段を駈け降りた。
 東中洲のカフェーに飛び込むと、昔なじみの女給連中が、鬨《とき》の声をあげて立ち上って来た。
「……まあ……めずらしいじゃないの……まあ……」
「どうしたの……あんたは……この頃……」
「いらっしゃアアい」
 私は薄暗い雪洞《ぼんぼり》の蔭から、眼を据えて睨み付けた。
「八釜《やかま》しい……ウイスキーを持って来るんだ」
 そう怒鳴り付けた私の眼の前に、早くもあの鯉幟の幻影が浮かみあらわれた。黒と、緑と、赤の滴雫《したたり》を、そこいら中に引きずり散らした……ダラリと垂れ下がった……。



底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年9月24日第1刷発行
底本の親本:「冗談に殺す」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
入力:柴田卓治
校正:しず
2000年9月26日公開
2006年3月13日修正
青空文庫作成ファイル:
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