配はない。
私は靴の踵に粘り付いた女の血を、蓬《よもぎ》の葉で拭いながら悠々と立ち上った。はるか向うの青田の中に落ちたパラソルを見かえりもせずに、今しがた女が伝って来た畦道の、下駄の痕《あと》を踏み付け踏み付け、平気な顔で工学部の前に引返した。みるみる殖《ふ》えて行く、線路の上の人だかりを横眼に見ながら、手近い法文科の門を潜って、生徒がウロウロしている地下室を通り抜けて、人通りのすくない海門戸《かいもんど》に出ると、やっと上衣を脱いで汗を拭いた。ここまで来れば、もう捕まる心配は無いからである。ついでに腕時計を見るとチョウド十時半であった。
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……夕刊の締切りまでアト二時間半キッカリ……その中《うち》で記事を書く時間をザット一時間と見ると……質屋にまわり込む時間は先ずあるまい……プラチナの腕時計がチットおかしいとは思うけれど……。
……色魔の早川や、黒幕の姉歯《あねば》にも会わない方が上策だろう……わざわざ泣き付かれに行くようなもんだからナ……。一つ抜き討ちを喰《くら》わして驚かしてくれよう……。
……帰り着くまで降り出さなけあいいが……。
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