社代表が二人、そうした辛苦艱難《しんくかんなん》を経てヤッと高知市に到着すると、板垣派から非常な歓迎を受けた。現下の時局に処する玄洋社一派の主義主張について色々な質問を受けたり議論を吹っかけられたりしたが、頭山満はもとより一言も口を利かないし、奈良原到も、今度はこっちから理窟を云いに来たのではない、諸君の理窟を聞きに来ただけじゃ……と睨み返して天晴れ玄洋社代表の貫禄を示したのでイヨイヨ尊敬を受けたらしい。
それから二代表は毎日毎日演説会場に出席して黙々として板垣一派の演説を静聴した。そうして何日目であったかの夕方になって二人が宿屋の便所か何かで出会うと、頭山満は静かに奈良原到をかえりみて微笑した。
「……どうや……」
「ウム。よさそうじゃのう。此奴《こやつ》どもの方針は……国体には触《さわ》らんと思うがのう、今の藩閥政府の方が国体には害があると思うがのう」
「やってみるかのう……」
「ウム。遣るがよかろう」
と云って奈良原到は思わず腕を撫でたという。実は奈良原としてはブチコワシ仕事の方が望ましかった。土佐の板垣一派の仕事を木葉微塵《こっぱみじん》にして帰るべく腕に撚《より》をかけて来たものであったが、それでは持って生れた彼一流の正義観が承知しなかった。
「演説はともかく、板垣という男の至誠には動かされたよ、この男の云う事なら間違うてもよい。加勢してやろうという気になった」
と後年の奈良原到翁は述懐した。
玄洋社が板垣の民権論に加勢するに決した事がわかると当時の藩閥政府はイヨイヨ震駭《しんがい》した。玄洋社と愛国社に向って現今の共産党以上の苛烈な圧迫を加えたものであったが、これに対して愛国社が言論に、玄洋社が腕力に堂々と相並んで如何に眼醒《めざま》しい反抗を試みたかは天下周知の事実だからここには喋々《ちょうちょう》しない事にする。
「結局。自由民権のあらわれである自治政治と議会政治は、板垣の赤誠《せきせい》を裏切って日本を腐敗堕落させた。日本人は自治権を持つ資格のない程に下等な民族であることを現実の通りに暴露したに過ぎなかったが、これに反して板垣の人格はイヨイヨ光って来るばかりである。昨日《きのう》、久し振りに板垣と会うて来たが昔の通りに立派な男で、手を握り合うて喜んでくれた。耳が遠くなって困ると云いおったがワシが持って生れた破鐘声《われがねごえ》で話すと、よくわかるよくわかるとうなずいておった。今のような世の中になったのはつまるところ、自由民権議論もよくわからず、日本人の素質もよく考えないままに、板垣の人物ばっかりを信用しておった頭山とワシの罪じゃないかと思うとる」
ところでこの辺までは先ず奈良原到の得意の世界であった。
幸いにして議会が開設されるにはされたが、その当初は選挙といっても全然暴力選挙のダイナマイト・ドン時代で、選挙運動者は皆、水盃の生命《いのち》がけであった。すこしばかりの左翼や右翼のテロが暴露しても満天下の新聞紙が青くなって震え出すような現代とは雲泥の差があったので、従って奈良原到一流のモノスゴイ睨みが到る処に、活躍の価値を発見したものであったが、それからのち、日本政界の腐敗堕落が甚しくなるに連れて、換言すれば天下が泰平になるに連れて、好漢、奈良原到も次第に不遇の地位に墜ちて来た。
しかもその不遇たるや尋常一様の不遇ではなかった。遂には玄洋社一派とさえ相容れなくなった位、極度に徹底した正義観念――もしくは病的に近い潔癖に禍《わざわい》された御蔭で、奈良原到翁は殆んど食うや喰わずの惨澹たる一生を終ったのであった。
それから後の奈良原到翁の経歴は世間の感情から非常に遠ざかっていたし、筆者も詳しくは聞いていないのであるが大略|左《さ》のような簡単なものであったらしい。
明治二十年頃(?)福岡市|須崎《すさき》お台場《だいば》に在る須崎監獄の典獄(刑務所長)となり、妻帯後間もなく解職し、爾後、数年閑居、日清戦役後、台湾の巡査となって生蕃《せいばん》討伐に従事した。それから内地へ帰来後、夫人を喪い、数人の子女を親戚故旧に托し、独《ひとり》、福岡市外|千代町《ちよまち》役場に出仕していたが、その後辞職して自分の娘の婚嫁先である北海道、札幌、橋本某氏の農園の番人となり、閑日月を送る事十三年、大正元年、桂内閣の時、頭山満、杉山茂丸の依嘱を受けて憲政擁護運動のため九州に下り、玄洋社の二階に起居し、後《のち》、大正六七年頃、対州《たいしゅう》の親戚某氏の処で病死した。享年七十……幾歳であったか、実は筆者も詳しく知らない。
その遺児の長男、奈良原|牛之介《うしのすけ》というのが又、親の血を受けていたらしい。天下無敵の快男児で、乱暴者ばかり扱い狃《な》れている内田良平、杉山茂丸も持て余した程の喧嘩の専門家であった。その乱暴者を、極めて温柔《おとな》しい文学青年の筆者と同列に可愛がったのが筆者の母親で、痛快な、男らしい意味では筆者よりも数十層倍、深刻な印象を、負けん気な母親の頭にタタキ込んでいる筈であるが、この男の伝記は後日の機会まで廻避して、ここには前記、失意後の乱暴オヤジ、奈良原到翁の逸話を二三摘出してこの稿を結ぶ事にする。
奈良原翁は少年時代に高場乱子、武部小四郎等から受けた所謂、黒田武士の葉隠れ魂、悪く云えば馬鹿を通り越しても満足せぬ意地張《いじばり》根性がドン底まで強かった。気に入らない奴は片端《かたっぱし》からガミつける。処嫌わずタタキつける。評議の席などで酔っ払った奈良原到が、眼を据えて睨みまわすと、いい加減な調子のいい事を云っている有志連中は皆青くなって、座が白けてしまったという。そんな連中が奈良原の貧乏な事をよく知っていて、時世|後《おく》れの廃物だとか、玄洋社の面《つら》よごしとか何とか、在る事無い事デマを飛ばして排斥したので、奈良原到は愈々《いよいよ》不遇に陥ったものらしい。
しかし後年の奈良原到翁には、別にそんな連中を怨んだような語気はなかった。多分、新時代の有志とか、代議士とかいうものは一列一体に太平の世に湧いた蛆虫《うじむし》ぐらいにしか思っていなかったのであろう。一依旧様、権門に媚《こ》びず、時世に諛《おもね》らず、喰えなければ喰えないままで、乞食以下の生活に甘んじ、喰う物が無くなっても人に頭を下げない。妻子を引連れて福岡の城外練兵場へ出て、タンポポの根なぞを掘って来て露命を繋いでいたというのだから驚く。御本人に聞いてみると、
「ナニ、タンポポの根というても別に喰い方というてはない。妻《かない》が塩で茹《ゆ》で、持って来よったようじゃが最初の中《うち》は香気が高くてナカナカ美味《おいし》いものじゃよ。新|牛蒡《ごぼう》のようなものじゃ。しかし二三日も喰いよると子供等が飽いて、ほかのものを喰いたがるのには困ったよ。ハッハッハッ」
と笑っているところは恰《まる》で飢饉の実話以上……ここいらは首陽山に蕨《わらび》を採った聖人の兄弟以上に買ってやらなければならぬと思う。別に周の世を悲しむといったような派手なメアテが在った訳ではなかったし、聖人でも何でもない。憐れな妻子が道伴《みちづ》れだったのだから尚更《なおさら》である。
その時代の事であったろうと思うが、筆者の母親の生家に不幸のあった時のこと、仏に旧交のあった奈良原到が、どこから借りて来たものか上下チグハグの紋服に袴《はかま》を穿いて悔みに来た。
「ほんの心持だけ……」
と皆に挨拶をして香奠《こうでん》と書いた白紙《しらかみ》の包みを仏前に供え恭《うやうや》しく礼拝して帰ったので皆顔を見合わせた。一体あの貧乏人がイクラ包んで来たのだろう……というので打寄って開いてみると中には何も這入っていなかった。正真正銘の白紙だけだったので皆抱腹絶倒した。
しかし心ある二三の人は涙を浮べて感心した。
「奈良原到は流石《さすが》に黒田武士じゃ、普通の奴なら貧乏を恥じて、挨拶にも来ぬところじゃが……」
生存している老看守某の話によると、奈良原到の須崎典獄時代には、囚人の奈良原を恐るる事、想像の外であったという。ドンナに兇猛な囚人でも、奈良原典獄が佩剣《はいけん》を押えて、
「その縄を解け。こっちへ連れて来い」
と云って睨み付けると、今にも斬られそうな殺気に打たれたらしい。眼を白くして縮み上ったという。
或る夜のこと、死刑にする筈の四人の囚人が、破獄したという通知が来たので、奈良原典獄は直ぐに駈付けて手配をさせた。そうして自身は制服のままお台場の突角《とっかく》に立って海上を見渡していると、やや暫くしてから足下の石垣をゾロゾロ匐《は》い登って来る者が居る。よく見ると、それがタッタ今破獄したばかりの四人の囚人たちで、海水にズブ濡れのまま到翁の足下にひれ伏して三拝九拝しているのであった。
後から取調べたところによると、その囚人はトテも兇暴、無残な連中で、看守をタタキ倒して破獄の後《のち》、お台場の下に浮かべてある夥しい材木の蔭に潜んで追捕の手を遣り過し、程近い潮場の下の釣船を奪って逃げるつもりであったが、その中《うち》に四人の中の一人が、
「……オイ……石垣の上に立って御座るのがドウヤラ典獄さんらしいぞ」
と云うと皆、恐ろしさに手足の力が抜けて浮いていられなくなった。歯の根がガチガチ鳴り出して、眼がポオとなってウッカリすると波に渫《さら》われそうになって来たので四人がだんだん近寄って来て……これはイカン。こんな事ではドウにもならんから、破獄を諦らめよう。一思いに奈良原さんの前に出て行って斬られた方がええ……という事に相談がきまると、不思議にも急に腰がシャンとなって、身内が温まって、勇気が出て来た。吾|後《おく》れじと石垣を匐登《はいのぼ》って来た……という話であった。これなぞは囚人特有の一種の英雄崇拝主義の極端なあらわれの一つに相違ないので、奈良原到の異常な性格を端的に反映した好逸話でなければならぬ。
「その頃の囚人の気合は今と違うておったように思うなあ」
と嘗《かつ》て奈良原翁は酒を飲み飲み筆者に述懐した。
「ワシは長巻直《ながまきなお》しの古刀を一本持っておった。二尺チョッと位と思われる長さのもので、典獄時代から洋剣《サアベル》に仕込んでおったが良う切れたなあ。腕でも太股でも手ごたえが変らん位で、首を切るとチャプリンと奇妙な音がして血がピューと噴水のように吹出しながらたおれる。ああ斬れた……と思う位で水も溜まらぬというが全くその通りであった。その癖刀身は非常に柔らかくて鉛か飴のような感がした。台湾の激戦の最中に生蕃の持っている棒なぞを斬ると帰って来てから鞘《さや》に納まらん事があったが、それでも一晩、床の間に釣り下げておくと翌る朝は自然と真直《まっすぐ》になっておった。生蕃征伐に行った時、大勢の生蕃を珠数《じゅず》つなぎに生捕って山又山を越えて連れて帰る途中で、面倒臭くなると斬ってしまう事が度々であった。あの時ぐらい首を斬った事はなかったが、ワシの刀は一度も研《と》がないまま始終切味が変らんじゃった。
生蕃という奴は学者の話によると、日本人の先祖という事じゃが、ワシもつくづくそう思うたなあ。生蕃が先祖なら恥かしいドコロではない。日本人の先祖にしては勿体ない位、立派な奴どもじゃ。彼奴《きゃつ》等は、戦争に負けた時が、死んだ時という覚悟を女子供の端《はし》くれまでもチャンと持っているので、生きたまま捕虜にされると何とのう不愉快な、理窟のわからんような面《つら》付きをしておった。彼奴等は白旗を揚げて降参するなどいう毛唐流の武士道を全く知らぬらしいので、息の根の止まるまで喰い付いて来よったのには閉口したよ。そいつを抵抗出来ぬように縛り上げて珠数つなぎにして帰ると、日本人は賢い。首にして持って帰るのが重たいためにこうするらしい。俺達は自分の首を運ぶ人夫に使われているのだ……と云うておったそうじゃが、これにはワシも赤面したのう。途中で山道の谷合いに望んだ処に来ると、ここで斬るのじゃないかという面付《つらつき》で、先に立ってい
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