て、一直線に福岡県庁に自首して出た時には、全県下の警察が舌を捲いて震駭《しんがい》したという。そこで武部小四郎は一切が自分の一存で決定した事である。健児社の連中は一人も謀議に参与していない事を明弁し、やはり兵営内に在る別棟の獄舎に繋がれた。
 健児社の連中は、広い営庭の遥か向うの獄舎に武部先生が繋がれている事をどこからともなく聞き知った。多分獄吏の中の誰かが、健気《けなげ》な少年連の態度に心を動かして同情していたのであろう。武部先生が、わざわざ大分から引返して来て、縛《ばく》に就かれた前後の事情を聞き伝えると同時に「事敗れて後《のち》に天下の成行《なりゆき》を監視する責任は、お前達少年の双肩に在るのだぞ」と訓戒された、その精神を実現せしむべく武部先生が、死を決して自分達を救いに御座ったものである事を皆、無言の裡《うち》に察知したのであった。
 その翌日から、同じ獄舎に繋がれている少年連は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向って礼拝した。「先生。お早よう御座います」と口の中で云っていたが、そのうちに武部先生が一切の罪を負って斬られさっしゃる……俺達はお蔭で助かる……という事実がハッキリとわかると、流石《さすが》に眠る者が一人もなくなった。毎日毎晩、今か今かとその時機を待っているうちに或る朝の事、霜の真白い、月の白い営庭の向うの獄舎へ提灯が近付いてゴトゴト人声がし始めたので、素破《すわ》こそと皆|蹶起《けっき》して正座し、その方向に向って両手を支えた。メソメソと泣出した少年も居た。
 そのうちに四五人の人影が固まって向うの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思うと、その中でも武部先生らしい一人がピッタリと立佇まって四方を見まわした。少年連のいる獄舎の位置を心探しにしている様子であったが、忽ち雄獅子の吼《ほ》えるような颯爽《さっそう》たる声で、天も響けと絶叫した。
「行くぞオォ――オオオ――」
 健児社の健児十六名。思わず獄舎の床に平伏《ひれふ》して顔を上げ得なかった。オイオイ声を立てて泣出した者も在ったという。
「あれが先生の声の聞き納めじゃったが、今でも骨の髄まで泌み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日《こんにち》まで自分《わし》の臓腑《はらわた》の腐り止めになっている。貧乏というものは辛労《きつ》いもので、妻子が飢え死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、腸《はらわた》がグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞオ』という気もちになる。貧乏が愉快になって来る。先生……先生と思うてなあ……」
 と云ううちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタと滾《こぼ》れ落ちるのを筆者は見た。
 奈良原到少年の腸《はらわた》は、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかった。

       (下)

 月明の霜朝に、自分等に代って断頭場に向った大先輩、武部小四郎先生の壮烈を極めた大音声《だいおんじょう》、
「行くぞオーオ」
 を聞いて以来、奈良原到少年の腸《はらわた》は死ぬが死ぬまで腐らなかった。
 その後、天下の国士を以て任ずる玄洋社の連中は、普通の人民と同様に衣食のために駈廻らず、同時に五斗米に膝を屈しないために、自給自足の生活をすべく、豪傑知事|安場保和《やすばやすかず》から福岡市の対岸に方《あた》る向い浜(今の西|戸崎《とざき》附近)の松原の官林を貰って薪を作り、福岡地方に売却し始めた。奈良原到少年もむろん一行に参加して薪採《たきぎと》りの事業に参加して粉骨砕身していたが、その後、安場知事の人格を色々考えてみると、どうも玄洋社を尊敬していないようである。却《かえ》って生活の糧《かて》を与えて慰撫しているつもりらしく見えたので、或夜、奈良原到はコッソリと起上って誰にも告げずに山のように積んである薪の束の間に、枯松葉を突込んで火を放ち、悉《ことごと》く焼棄してしまった。つまり天下の政治を云為《うんい》する結社が区々たる知事|風情《ふぜい》の恩義を蒙《こうむ》るなぞいう事は面白くないという気持であったらしいが、対岸の福岡市では時ならぬ海上の炬火《かがりび》を望んで相当騒いだらしい。馳付《はせつ》けた同志の連中も、手を拍って快哉を叫んでいる奈良原少年の真赤な顔を見て唖然となった。一人として火を消し得る者が無かったという。
 こうした奈良原少年の精神こそ、玄洋社精神の精髄で、黒田武士の所謂《いわゆる》、葉隠れ魂のあらわれでなければならぬ。玄洋社の連中は何をするかわからぬという恐怖観念が、明治、大正、昭和の政界、時局を通じて暗々の裡《うち》に人心を威圧しているのもこの辺に端を発してるのではなかろうか。

 そのうちに四国の土佐で、板垣退助という男が、自由民権という事を叫び出して、なかなか盛んにやりおるらしい。明治政府でもこれを重大視しているらしい……という風評が玄洋社に伝わった。
 その当時の玄洋社員は筆者の覚束《おぼつか》ない又聞きの記憶によると頭山満が大将株で奈良原到、進藤喜平太、大原|義剛《ぎごう》、月成勲《つきなりいさお》、宮川太一郎なぞいう多士済々たるものがあったが、この風聞に就いて種々凝議した結果、とにも角にも頭山と奈良原に行って様子を見てもらおうではないかという事になった。
 その当時の評議の内容を伝え聞いていた福岡の故老は語る。
「大体、玄洋社というものは、土佐の板垣が議論の合う者同志で作っておった愛国社なんぞと違うて、主義も主張も何もない。今の世の中のように玄洋社精神なぞいうものを仰々しく宣言する必要もない。ただ何となしに気が合うて、死生を共にしようというだけでそこに生命《いのち》知らずの連中が、黙って集まり合うたというだけで、そこに燃え熾《さか》っている火のような精神は文句にも云えず、筆にも書けない。否《いや》文句以上、筆以上の壮観で、烈々|宇内《うだい》を焼きつくす概があった。頭山が遣るというなら俺も遣ろう。奈良原が死ぬというなら俺も死のう。要らぬ生命《いのち》ならイクラでも在る。貴様も来い。お前も来い。……という純粋な精神的の共産主義者の一団とも形容すべきものであった。それじゃけに、愛国社の連中は一度《ひとたび》、時を得て議論が違うて来ると、外国の社会主義者連中と同じこと直ぐに離れ離れになる。もっとも今の政党は主義主張が合うても利害が違うと仲間割れするので、今一段下等なワケじゃが、玄洋社となると理窟なしに集まっとるのじゃけに日本の国体と同じことじゃ。利害得失、主義主張なぞがイクラ違うても、お互いに相許しとる気持は一つじゃけに議論しながら決して離れん。玄洋社は潰れても玄洋社精神は今日《こんにち》まで生きておって、国家のために益々|壮《さか》んに活躍しおるのじゃ。そげなワケじゃけに、その当時の玄洋社で一口に自由民権と聞いても理窟のわかる奴は一人も居らんじゃった。それじゃけに、ともかくもこの二人に板垣の演説を聞いてもろうて、国のためにならぬと思うたならば二人で板垣をタタキ潰してもらおう。もし又、万一、二人が国のためになると思うたならば玄洋社が総出で板垣に加勢してやろう。ナアニ二人が行けば大丈夫。口先ばっかりの土佐ッポオをタタキ潰して帰って来る位、何でもないじゃろう」
 といったような極めて荒っぽい決議で、旅費を工面して二人を旅立たせた……というのであるが何が扨《さて》、無双の無頓着主義の頭山満と人を殺すことを屁《へ》とも思わぬ無敵の乱暴者、奈良原到という、代表的な玄洋社式がつながって旅行するのだから、途中は弥次喜多どころでない。天魔鬼神も倒退《たいとう》三千里に及ぶ奇談を到る処に捲起して行ったらしい。
 当時の事を尋ねても頭山満翁も奈良原翁もただ苦笑するのみであまり多くを語らなかったが、それでも辛うじて洩れ聞いた、差支えない部類に属するらしい話だけでも、ナカナカ凡俗の想像を超越しているのが多い。
 二人とも或る意味での無学文盲で、日本の地理なぞ無論、知らない。四国がドッチの方角に在るかハッキリ知らないまんまに、それでも人に頭を下げて尋ねる事が二人とも嫌いなまんまに不思議と四国に渡って来たような事だったので、途中で無茶苦茶に道に迷ったのは当然の結果であった。
「オイオイ百姓。高知という処はドッチの方角に当るのか」
「コッチの方角やなモシ」
「ウン。そうか」
 と云うなりグングンその方角に行く。野でも山でも構わない式だからたまらない。玄洋社代表は迷わなくても道の方が迷ってしまう。その中《うち》に或る深山の谷間を通ったら福岡地方で珍重する忍草《しのぶぐさ》が、左右の崖に夥しく密生しているのを発見したので、奈良原到が先ず足を止めた。
「オイ。頭山。忍草《しのぶ》が在るぞ。採って行こう」
「ウム。オヤジが喜ぶじゃろう」
 というので道を迷っているのも忘れて盛んに※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り始めたが、その中《うち》に日が暮れて来たので気が付いてみると、荷車が一台や二台では運び切れぬ位、採り溜めていた。
「オイ。頭山。これはトテモ持って行けんぞ」
「ウム。チッと多過ぎるのう、帰りに持って行こう」
 それから又行くと今度は山道七里ばかりの間人家が一軒も無い処へ来たので、流石《さすが》の玄洋社代表も腹が減って大いに弱った。ところへ思いがけなく向うから笊《ざる》を前後に荷《かつ》いだ卵売りに出会ったので呼止めて、二人で卵を買って啜《すす》り始めたが、卵というものはイクラ空腹でも左程沢山に啜れるものでない。十個ばかり啜る中《うち》に、二人とも硫黄臭いゲップを出すようになると、卵売りは大いに儲けるつもりで、道傍《みちばた》の枯松葉を集めて焼卵を作り、二人にすすめたので又食慾を新にした二人は、したたかに喰べた。
 ところでそこまでは先ず好都合であったがアトが散々であった。そこからまだ半道も行かぬ中《うち》に二人は忽ち鶏卵中毒を起し、猛烈な腹痛と共に代る代る道傍に跼《かが》み始めたので、道が一向に捗《はかど》らない。併《しか》し強情我慢の名を惜しむ二人はここでヘタバッてなるものかと歯を噛みしめて、互いに先陣を争って行くうちに、やっと人家近い処へ来たので二人とも通りかかった小川で尻を洗い、宿屋に着くには着いたが、あまりの息苦しさに、ボーオとなって腰をかけながら肩で呼吸《いき》をしているところへ宿屋の女中が、
「イラッシャイマセ。どうぞお二階へお上りなされませ」
 と云った時には階子段を見上げてホッとタメ息を吐《つ》いたという。
 それからその翌日の事。二人とも朝ッパラからヘトヘトに疲れていたので、宿屋からすすめられるままに馬に乗ったら、その馬を引いた馬士《まご》が、途中の宿場で居酒屋に這入った。するとその馬が一緒に居酒屋へ這入ろうとしたので乗っていた頭山が面喰らったらしい。慌てて居酒屋の軒先に掴まって両足で馬の胴を締め上げて入れまいと争ったが、とうとう馬の方が勝って頭山が軒先にブラ下った。その時の恰好の可笑《おか》しかったこと……と奈良原翁が筆者に語って大笑いした事がある。
 そのうちに高知市に近付くと眼の前に大きな山が迫って来て高知市はその真向いの山向うに在る。道路はその山の根方をグルリとまわって行くのであるが、その山を越えて一直線に行けば三分の一ぐらいの道程《みちのり》に過ぎない……と聞いた二人の心に又しても曲る事を好まぬ黒田武士の葉隠れ魂……もしくは玄洋社魂みたいなものがムズムズして来た。期せずして二人とも一直線に山を登り始めたが、その山が又、案外|嶮岨《けんそ》な絶壁だらけの山で、道なぞは無論無い。殆んど生命《いのち》がけの冒険続きでヘトヘトになって向うへ降りたが、後から考えると、たとえ四里でも五里でも山の根方をまわった方が早かったように思った……という。やはり奈良原翁の笑い話であった。
 そうした玄洋
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