無二の親友になったものだという。
ちょうどその頃が西南戦争の直前であった。維新後に於ける物情の最も騒然たる時代であった。
既掲、頭山、杉山の項にも述べた通り、筑前藩の志士は維新の鴻業《こうぎょう》後、筑前閥を作る事が出来なかった。従って不平士族の数は他地方に優《まさ》るとも劣らなかった筈である。
そんな連中は有為果敢の材を抱きながら官途に就く事が出来ず鬱勃たる壮志を抱いたまま明治政府を掌握している薩長土肥の横暴振り、名利の争奪振りを横目に睨んでいた。尊王攘夷を標榜して徳川を倒しておきながら、サテ政権を握ると同時に攘夷どころか、国体どころか、一も西洋二も西洋と夷敵《いてき》紅毛人の前にペコペコして洋服を着、洋食を喰《くら》って、アラン限りブルジョア根性を発揮し、屈辱的条約をドシドシ結びながら、恬然《てんぜん》として徳川十五代将軍と肩を並べている大官連の厚顔無恥振りに眥《まなじり》を決していた。そのうちに福岡にも鎮台が設けられて、町人百姓に洋服を着せた兵隊が雲集し、チャルメラじみた喇叭《ラッパ》を鳴らして干鰯《ほしいわし》の行列じみた調練が始まった。
その頃、士族の下《した》ッ端《ぱ》連の成れの果は皆、警官(邏卒《らそつ》、部長、警部等)に採用されていたものであったが、この羅卒(今の巡査)連中が皆鎮台兵と反《そ》りが合わなかった。……俺達のような腹からの士族と同じように、町人百姓が戦争の役に立つものか……といったような一種の階級意識から、犬と猿のように仲が悪く、毎日毎日福岡市内の到る処で、鎮台兵と衝突していたものであるが、しかも、そうした不平士族の連中の中には西郷隆盛の征韓論の成立を一日千秋の思いで仰望していたものが少くなかった。祖先伝来の一党を提《ひっさ》げて西郷さんのお伴をして、この不愉快な日本を離れて士族の王国を作りに行かねばならぬ。武士の生涯は武を以て一貫せねばならぬ。町人や百姓と伍して食物を漁《あさ》り合わねばならぬ、犬猫同然の国民平等の世界に、一日でも我慢が出来《でく》るか……とか何とか云って鼻の頭をコスリ上げている。
そこへ征韓論が破れて、西郷さんが帰国したというのだから一大事である。
その頃、筑前志士の先輩に、越智《おち》彦四郎、武部小四郎、今村百八郎、宮崎|車之助《くるまのすけ》、武井忍助なぞいう血気盛んな諸豪傑が居た。そんな連中と健児社の箱田|六輔《ろくすけ》氏等が落合って大事を密議している席上に、奈良原到以下十四五を頭《かしら》くらいの少年連が十六名ズラリと列席していたというのだから、その当時の密議なるものが如何に荒っぽいものであったかがわかる。密議の目的というのは薩摩の西郷さんに呼応する挙兵の時機の問題であったが、その謀議の最中に奈良原到少年が、突如として動議を提出した。
「時機なぞはいつでも宜しい。とりあえず福岡鎮台をタタキ潰せば良《え》えのでしょう。そうすれば藩内の不平士族が一時《いちどき》に武器を執《と》って集まって来ましょう」
席上諸先輩の注視が期せずして奈良原少年に集まった。少年は臆面もなく云った。
「私どもはイツモお城の石垣を登って御本丸の椋《むく》の実を喰いに行きますので、あの中の案内なら、親の家《うち》よりも良う知っております。私どもにランプの石油を一カンと火薬を下さい。私ども十六人が、皆、頭から石油を浴びて、左右の袂《たもと》に火薬を入れたまま石垣を登って番兵の眼を掠《かす》め、兵営や火薬庫に忍込《しのびこ》みます。そうして蘭法附木《マッチ》で袂に火を放って走りまわりましたならば、そこここから火事になりましょう。火薬庫も破裂しましょう。その時に上の橋と下の橋から斬り込んでおいでになったならば、土百姓や町人の兵隊共は一たまりもありますまい」
これを聞いた少年連は皆、手を拍《う》って奈良原の意見に賛成した。口々に、
「遣って下さい遣って下さい」
と連呼して詰め寄ったので並居る諸先輩は一人残らず泣かされたという。その中にも武部小四郎氏は、静かに涙を払って少年連を諫止《かんし》した。
「その志は忝《かたじけ》ないが、日本の前途はまだ暗澹たるものがある。万一吾々が失敗したならば貴公《あんた》達が、吾々の後跟《あと》を継いでこの皇国|廓清《かくせい》の任に当らねばならぬ。また万一吾々が成功して天下を執る段になっても、吾々が今の薩長土肥のような醜い政権利権の奴隷になるかならぬかという事は、ほかならぬ貴公《あんた》達に監視してもらわねばならぬ。間違うても今死ぬ事はなりませぬぞ」
今度は少年連がシクシク泣出した。皆、武部先生のために死にたいのが本望であったらしいが結局、小供たちは黙って引込んでおれというので折角の謀議から逐退《おいしりぞ》けられて終《しま》った。
かくして武部小四郎の乱、宮崎車之助の乱等が相次いで起り、相次いで潰滅し去った訳であるが、後から伝えられているところに依ると、これ等の諸先輩の挙兵が皆、鎮台と、警察に先手を打たれて一敗地に塗《まみ》れた原因は、皆奈良原少年の失策に起因していた。奈良原少年一流の急進的な激語が破鐘《われがね》のように大きいのでその家を取巻く密偵の耳に筒抜けに聞えたに違いないという事になった。それ以来「奈良原の奴は密議に加えられない」という事になって同志の人は事ある毎《ごと》に奈良原少年を敬遠したというのだから痛快である。しかも前記の乱の鎮定後明治政府に対して功績を挙ぐるに汲々たる県当局では、残酷にも健児社に居残っている少年連を悉《ことごと》く引捉《ひっとら》えて投獄した。一味徒党の名前を云えというので、年端《としは》も行かぬ連中に、夜となく昼となく極烈な拷問をかけたというのだから、呆れた位では追付かない話である。
その当時の事を後年の奈良原翁は筆者に追懐して聞かせた。
「現在(大正三年頃)玄洋社長をやっとる進藤喜平太は、その当時まあだ紅顔の美少年で、女のように静かな、温柔《おとな》しい男じゃったが、イザとなるとコレ位、底強い、頼もしい男はなかった。熊本県の壮士と玄洋社の壮士とが博多東中洲の青柳《あおやぎ》の二階で懇親会を開いた時に、熊本の壮士の首領で某《なにがし》という名高い強い男が、頭山の前に腰を卸して無理酒を強《し》いようとした。頭山は一滴もイカンので黙って頭を左右に振るばかりであったが、そこを附け込んだ首領の某《なにがし》がなおも、無理に杯を押付ける。双方の壮士が互い違いに坐っているので互いに肩臂《かたひじ》を張って睨み合ったまま、誰も腰を上げ得ずにいる時に、進藤がツカツカと立上って、その首領某の襟首を背後から引掴むと、杯盤の並んだ上を一気に梯子段の処まで引摺って来て、向う向きに突き落した。そのあとを見返りもせずにニコニコと笑いながら引返して来て『サア皆。飲み直そう』と云うた時には大分青くなっておった奴が居たようであったが、その進藤と、頭山満と自分《わし》と三人は並んで県庁の裏の獄舎《ごくや》で木馬責めにかけられた。背中の三角になった木馬に跨《またが》らせられて腰に荒縄を結び、その荒縄に一つ宛《ずつ》、漬物石を結び付けてダンダン数を殖《ふ》やすのであったが、頭山も進藤も実に強かった。石の数を一つでも余計にブラ下げるのが競争のようになって、あらん限り強情を張ったものであった。三人とも腰から下は血のズボンを穿《は》いたようになっているのを頭山は珍らしそうにキョロキョロ見まわしている。進藤も石が一つ殖える度毎《ごと》に嬉しそうに眼を細くしてニコニコして見せるので、意地にも顔を歪める訳に行かん。どうかした拍子に進藤に向って『コラッ。貴様の面《つら》が歪んどるぞ』と冷やかしてやると進藤の奴、天井を仰いで『アハアハアハアハ』と高笑いしおったが、後から考えるとソウいう自分《わし》の方が弱かったのかも知れんて、ハハハ。とにかく頭山は勿論、進藤という奴もドレ位強い奴かわからんと思うた。役人どもも呆れておったらしい。
それから今一つ感心な事がある。
獄舎《ごくや》にいる間には副食物に時々|魚類《さかな》が付く。……というても飯の上に鰯の煮たのが並んでいる位の事じゃったが、そのたんびに頭山は箸《はし》の先で上の方の飯を、その鰯と一所《いっしょ》に払い除《の》けて、鼻に押当てて嗅いでみる。そうしてイヨイヨ腥《なまぐさ》くないとこまで来てから喰う。尋常に喰うても足らぬ処へ、平生大飯|喰《くら》いの頭山が妙な事をすると思うて理由を聞いてみると、きょうは死んだ母親何とかの日に当るけに精進をしよるというのじゃ。それを聞いてから自分《わし》はイツモ飯となると頭山の横に座ったものじゃがのう。ハハハ」
進藤喜平太翁も、その時分の事を筆者に述懐した事がある。
「拷問ちうたて、痛いだけの事で何でもなかったが、酒が飲めんのには降参した。飲みとうて飲みとうてならぬところへ、ちょうど虎烈剌《コレラ》が流行《はや》ってなあ。獄卒がこれを消毒《まよけ》のために雪隠《せついん》に撒《ふ》れと云うて酢を呉《く》れたけに、それを我慢して飲んだものじゃ。むろん米の酢じゃけに飲むとどことなくポーッと酔うたような気持になるのでなあ……まことに面目ない、浅ましい話じゃったが、奈良原が、あの面《つら》付きでシカメて酢を飲みよるところはナカナカ奇観じゃったよ。奈良原は酒を飲むといつも酔狂をしおったが、酢では酔興が出来んので残念じゃと云うておった」
同じ健児社の同志で運よく年少のために捕えられなかった宮川太一郎(今の政友代議士、宮川一貫氏の父君)氏が、同志に与うべく牛肉の煮たのを獄舎に持って行き、門衛の看守に拒まれたので鉄門の間に足を突込んで、死を決して駄々《だだ》を捏《こ》ね始め、終日看守を手古摺《てこず》らせた揚句《あげく》、やっと目的を達すると、その翌日からドシドシ肉を運び始めて大いに当局を弱らせたのもこの時の事であったという。
そのうちに西南の戦雲が、愈《いよいよ》濃厚になって来たので、県当局でも万一を慮《おもんぱか》ったのであろう、頭山、奈良原を初め、健児社の一味を尽《ことごと》く兵営の中の営倉に送り込むべく獄舎から鎖に繋いで引出した。その時は健児社の健児一同、当然斬られるものと覚悟したらしく、互いに顔を見合わせてニッコリ笑ったという事であるが、同じ時に奈良原少年と同じ鎖に繋がれる仲よしの松浦愚少年が、護送の途中でこんな事を云い出した。
「オイ。奈良原。今度こそ斬られるぞ」
「ウン。斬るつもりらしいのう」
「武士というものは死ぬる時に辞世チュウものを詠《よ》みはせんか」
「ウン。詠んだ方が立派じゃろう。のみならず同志の励みになるものじゃそうな」
「貴公は皆の中で一番学問が出来《でけ》とるけに、嘸《さぞ》いくつも詠む事じゃろうのう」
「ウム。今その辞世を作りよるところじゃが」
「俺にも一つ作ってくれんか。親友の好誼《よしみ》に一つ頒《わ》けてくれい。何も詠まんで死ぬと体裁が悪いけになあ。貴公が作ってくれた辞世なら意味はわからんでも信用出来るけになあ。一つ上等のヤツを頒けてくれい。是非頼むぞ」
流石《さすが》の豪傑、奈良原少年も、この時には松浦少年の無学さが可哀そうなような可笑《おか》しいようで、胸が一パイになって、暫くの間返事が出来なかったという。
一方に盟主、武部小四郎は事敗れるや否や巧みに追捕の網を潜《くぐ》って逃れた。香椎《かしい》なぞでは泊っている宿へイキナリ踏込まれたので、すぐに脇差を取って懐中に突込み、裏口に在った笊《ざる》を拾って海岸に出て、汐干狩の連中に紛れ込むなぞという際どい落付を見せて、とうとう大分まで逃げ延びた。ここまで来れば大丈夫。モウ一足で目指す薩摩の国境という処まで来ていたが、そこで思いもかけぬ福岡の健児社の少年連が無法にも投獄拷問されているという事実を風聞すると天を仰いで浩嘆《こうたん》した。万事休すというので直《ただち》に踵《きびす》を返した。幾重《いくえ》にも張廻《はりま》わしてある厳重を極めた警戒網を次から次に大手を振って突破し
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