りに固く守って、托鉢坊主になったり、謡曲の師匠になったり又は三文文士になったりして文字通りに路頭に迷いそうなので、親仁も呆れて、感心な奴だと賞めながら月給を支給している。
「俺の伜は実に呆れた奴だ。小説を出版してくれと云うから読んでやると、最初の一二行読むうちに、何の事やらわからなくなる。屁《へ》のような事ばかりを一生懸命に書き立てているのでウンザリしてしまう。たまたま俺にわかりそうな処を読んでみるとツイこの間、ヒドク叱り付けてやった俺の云い草をチャント記憶《おぼえ》ていやがって、そっくりその通りを小説の中味に採用していやがるのには呆れ返った。娘を売って喰う親は居るが、親を売って喰う伜が居るもんじゃない。一生涯あの伜だけは叱らない事にきめた」
 因《ちなみ》に、その伜の筆名《ペンネーム》は夢野久作という。親父の法螺丸が山のように借銭を残して死んでやろうと思っているとは夢にも知らずに、九州の香椎《かしい》の山奥で、妻子五人を抱えて天然を楽しんでいる。焼野の雉子《きぎす》、夜の鶴。この愚息なぞも法螺丸にとっては、頭山満と肩を並べる程度の苦手かも知れない。
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   奈良原到



       (上)

 前掲の頭山、杉山両氏が、あまりにも有名なのに反して、両氏の親友で両氏以上の快人であった故奈良原|到《いたる》翁があまりにも有名でないのは悲しい事実である。のみならず同翁の死後と雖《いえど》も、同翁の生涯を誹謗《ひぼう》し、侮蔑する人々が尠《すくな》くないのは、更に更に情ない事実である。
 奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世に容《い》れられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却されて、窮死《きゅうし》した志士である。つまり戦国時代と同様に滅亡した英雄の歴史は悪態《あしざま》に書かれる。劣敗者の死屍《しかばね》は土足にかけられ、唾《つばき》せられても致方《いたしかた》がないように考えられているようであるが、しかし斯様《かよう》な人情の反覆の流行している現代は恥ずべき現代ではあるまいか。
 これは筆者が故奈良原翁と特別に懇意であったから云うのではない。又は筆者の偏屈から云うのでもない。
 志士としては成功、不成功なぞは徹頭徹尾問題にしていなかった翁の、徹底的に清廉、明快であった生涯に対して、今すこし幅広い寛容と、今すこし人間味の深い同情心とを以《もっ》て、敬意を払い得る人の在りや無しやを問いたいために云うのである。
 その真黒く、物凄く輝く眼光は常に鉄壁をも貫く正義観念を凝視していた。その怒った鼻。一文字にギューと締った唇。殺気を横たえた太い眉。その間に凝結、磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》している凄愴《せいそう》の気魄はさながらに鉄と火と血の中を突破して来た志士の生涯の断面そのものであった。青黒い地獄色の皮膚、前額に乱れかかった縮れ毛。鎧《よろい》の仮面に似た黄褐色の怒髭《どし》、乱髯《らんぜん》。それ等に直面して、その黒い瞳に凝視されたならば、如何なる天魔鬼神でも一縮《ひとちぢ》みに縮み上ったであろう。況《いわ》んやその老いて益々筋骨隆々たる、精悍《せいかん》そのもののような巨躯に、一刀を提《ひっさ》げて出迎えられたならば、如何なる無法者と雖《いえど》も、手足が突張って動けなくなったであろう。どうかした人間だったら、その翁の真黒い直視に会った瞬間に「斬られたッ」という錯覚を起して引っくり返ったかも知れない。
 事実、玄洋社の乱暴者の中ではこの奈良原翁ぐらい人を斬った人間は少かったであろう。そうしてその死骸を平気で蹴飛ばして瞬《またたき》一つせずに立去り得る人間は殆んど居なかったであろう。奈良原到翁の風貌には、そうした冴え切った凄絶な性格が、ありのままに露出していた。微塵《みじん》でも正義に背《そむ》く奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人という感じに、一眼《ひとめ》で打たれてしまうのであった。
 この奈良原翁の徹底した正義観念と、その戦慄に価する実行力が、世人の嫌忌を買ったのではあるまいか。そうしてその刀折れ矢尽きて現社会から敗退して行った翁の末路を見てホッとした連中が「それ見ろ。いい気味だ」といったような意味から、卑怯な嘲罵を翁の生涯に対して送ったのではあるまいか。
 実際……筆者は物心付いてから今日まで、これほどの怖い、物すごい風采をした人物に出会った事がない。同時に又、如何なる意味に於ても、これ程に時代離れのした性格に接した事は、未だ曾《かつ》て一度もないのである。
 そうだ。奈良原翁は時代を間違えて生れた英傑の一人なのだ。翁にしてもし、元亀天正の昔に生を稟《う》けていたならば、たしかに天下を聳動《しょうどう》していたであろう。如何なる権威にも屈せず、如何なる勢力をも眼中に措《お》かない英傑児の名を、青史に垂れていたであろう。
 こうした事実は、奈良原翁と対等に膝を交えて談笑し、且つ、交際し得た人物が、前記頭山、杉山両氏のほかには、あまり居なかった。それ以外に奈良原翁の人格を云為《うんい》するものは皆、痩犬の遠吠えに過ぎなかった事実を見ても、容易に想像出来るであろう。

 明治もまだ若かりし頃、福岡市外(現在は市内)住吉の人参畑《にんじんばたけ》という処に、高場乱子《たかばらんこ》女史の漢学塾があった。塾の名前は忘れたが、タカが女の学問塾と思って軽侮すると大間違い、頭山満を初め後年、明治史の裏面に血と爆弾の異臭をコビリ付かせた玄洋社の諸豪傑は皆、この高場乱子女史と名乗る変り者の婆さんの門下であったというのだから恐ろしい。彼《か》の忍辱慈悲の法衣の袖に高杉晋作や、西郷隆盛の頭を撫で慈しんだ野村|望東尼《ぼうとうに》とは事変り、この婆さん、女の癖に元陽と名乗り、男髪《おとこがみ》の総髪に結び、馬乗袴《うまのりばかま》に人斬庖刀を横たえて馬に乗り、生命《いのち》知らずの門下を従えて福岡市内を横行したというのだから、デートリッヒやターキーが辷《すべ》ったの、女学生のキミ・ボクが転んだの候《そうろう》といったって断然ダンチの時代遅れである。時は血腥《ちなまぐさ》い維新時代である。おまけに皺苦茶の婆さんだからたまらない。
 わが奈良原到少年はその腕白盛りをこの尖端婆さんの鞭撻下にヒレ伏して暮した。そのほか当時の福岡でも持て余され気味の豪傑青少年は皆この人参畑に預けられて、このシュル・モダン婆さんの時世に対する炬《かがりび》の如き観察眼と、その達人的な威光の前にタタキ伏せられたものだという。
 その当時の記憶を奈良原到翁に語らしめよ。
「人参畑の婆さんの処にゴロゴロしている書生どもは皆、順繰りに掃除や、飯爨《めしたき》や、買物のお使いに遣られた。しかし自分《わし》はまだ子供で飯が爨《た》けんじゃったけにイツモ走り使いに逐《お》いまわされたものじゃったが、その当時から婆さんの門下というと、福岡の町は皆ビクビクして恐ろしがっておった。
 自分《わし》の同門に松浦|愚《おろか》という少年が居った。こいつは学問は一向|出来《でけ》ん奴じゃったが、名前の通り愚直一点張りで、勤王の大義だけはチャント心得ておった。この松浦愚と自分《わし》は大の仲好しで、二人で醤油買いに行くのに、わざと二本の太い荒縄で樽《たる》を釣下げて、その二本の縄の端を左右に長々と二人で引っぱって樽をブランブランさせながら往来一パイになって行くと往来の町人でも肥料車《こえぐるま》でも皆、恐ろしがって片わきに小さくなって行く。なかなか面白いので二人とも醤油買いを一つの楽しみにしていた。
 或る時、その醤油買いの帰りに博多の櫛田神社の前を通ると、社内に一パイ人だかりがしている。何事かと思って覗いてみると勿体らしい衣冠束帯をした櫛田神社の宮司が、拝殿の上に立って長い髯《ひげ》を撫でながら演説をしている。その頃は演説というと、芝居や見世物よりも珍しがって、演説の出来る人間を非常に尊敬しておった時代じゃけに、早速二人とも見物を押しかけて一番前に出て傾聴した。ところがその髯神主の演説に曰《いわ》く、
『……諸君……王政維新以来、敬神の思想が地を払って来たことは実にこの通りである。真に慨嘆に堪えない現状と云わなければならぬ。……諸君……牢記《ろうき》して忘るる勿れ。神様というものは常に吾が○○以上に尊敬せねばならぬものである。その実例は日本外史を繙《ひもと》いてみれば直ぐにわかる事である。遠く元弘三年の昔、九州随一の勤王家菊池武時は、逆臣北条探題、少弐《しょうに》大友等三千の大軍を一戦に蹴散《けち》らかさんと、手勢百五十騎を提《ひっさ》げて、この櫛田神社の社前を横切った。ところがこの戦いは菊池軍に不利であることを示し給う神慮のために、武時の乗馬が鳥居の前で俄《にわ》かに四足を突張って後退し始めた。すると焦燥《あせ》りに焦燥っている菊池武時は憤然として馬上のまま弓に鏑矢《かぶらや》を番《つが》えた。
「この神様は牛か馬か。皇室のために決戦に行く俺の心がわからんのか。
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武士《もののふ》のうわ矢のかぶら一すぢに
   思ひ切るとは神は知らずや」
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 と吟ずるや否や神殿の扉に発矢《はっし》とばかり二本の矢を射かけた。トタンに馬が馳け出したのでそのまま戦場に向ったが、もしこの時に武時が馬から降りて、神前に幸運を祈ったならば、彼は戦いに勝ったであろうものを、斯様《かよう》な無礼を働らいて神慮を無視したために勤王の義兵でありながら一敗地に塗《まみ》れた……』
 衣冠束帯の神主が得意然とここまで喋舌《しゃべ》って来た時に、自分《わし》と松浦愚の二人はドッチが先か忘れたが神殿に躍り上っていた。アッと云う間もなく二人で髭神主を殴り倒おし蹴倒おす。松浦が片手に提げていた醤油樽で、神主の脳天を食らわせたので、可愛そうに髭神主が醤油の海の中にウームと伸びてしまった。……この賽銭《さいせん》乞食の奴、神様の広告のために途方もない事を吐《ぬ》かす。皇室あっての神様ではないか。そういう貴様が神威を涜《けが》し、国体を誤る国賊ではないか……というたような気持であったと思うが、二人ともまだ十四か五ぐらいの腕白盛りで、そのような気の利いた事を云い切らんじゃった。ただ、
『この畜生。罰《ばち》を当てるなら当ててみよ』
 と破《わ》れた醤油樽を御神殿に投込んで人参畑へ帰って来たが、帰ってからこの話をすると、それは賞められたものじゃったぞ。大将の婆さんが涙を流して『ようしなさった。感心感心』と二人の手を押戴《おしいただ》いて見せるので、塾の連中が皆、金鵄《きんし》勲章でも貰うたように俺達の手柄を羨ましがったものじゃったぞ。ハハハハハ」

 人参畑の婆さんがいつまで存命して御座ったか一寸《ちょっと》調査しかねているが、とにもかくにも、こうした人参畑の豪傑青少年連は、その後《のち》健児社という結社を組織して、天下の形勢を睥睨《へいげい》する事になった。これが後《のち》の玄洋社の前身であったが、天下の形勢を憂慮する余り、近所界隈の畑や鶏舎を荒し、犬猫の影を絶ち、営所の堀の蟇《がま》を捕って来て、臓腑を往来に撒布するなぞ、乱暴狼藉到らざるなく、健児社の連中といえば、大人でも首を縮める程の無敵な勢力を持っていたものであった。
 その中でも乱暴者の急先鋒は我が奈良原少年で、仲間から黒旋風李逵《こくせんぷうりき》の綽名《あだな》を頂戴していた。奈良原到が飯爨《めしたき》当番に当ると、塾の連中が長幼を問わず揃って早起をした……というのは、飯の準備が出来上るまで寝床に潜っていると、到少年がブスブス燃えている薪を掴んで来て、寝ている奴の懐中に突込むからであった。しかもその燃えさしを懐中に突込まれたまま、燃えてしまうまで黙って奈良原少年の顔をマジリマジリと見ていたのが塾の中にタッタ一人頭山満少年であった。そうして奈良原少年が消えた薪を引くと同時に起上って奈良原少年を取って伏せて謝罪《あやま》らせたので、それ以来二人は
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