るま》の車夫に、もしこの事業に成功した暁には、貴様に米俵一杯の砂金を遣ると云ったもんだから、真《ま》に受けた俥夫《しゃふ》の奴め真夏の炎天をキチガイのように走りまわったものだが、一方にこの話が玄洋社の連中に伝わった時の壮士連の活気付きようと来たら、それこそ前代未聞の壮観だったね。四百億円あれば、朝鮮、支那、満洲、手に唾《つばき》して取るべしと云うのだ。アトは宜しくお願いしますというので弦《つる》を離れた矢のように、手弁当でビュービューと満洲へ飛んで行く。到る処に根を下し、羽根を拡げて、日本内地から来る四百億円を待っている……という勇敢さだ。その中《うち》に俺の軍資金調達が不可能になって、この話はオジャンになった。一番残念がったのは俺の俥屋《くるまや》だったが、満洲に根を下した豪傑連は、そんな事はわからない。一秒もジッとしておれない連中だからグングンと活躍を続けて行く。日清日露の両戦役に彼等の活躍がドレ位助けになったかわからない。現在の満洲国の独立は夕張川の四百億円の御蔭と云ってもいい位だ。否、玄洋社連の四百億円の夢が、満洲に於て現実化されたと云ってもいいだろう。世の中というものは、そんなものだ。シッカリさえしておれば恐ろしい事はない。気を大きく持って時節を待ち給え。四百億円というと大戦後の独逸を、カイゼルもヒンデンブルグもヒトラーもコミにして丸ごと買える金額だからね。それ位の夢は時々見ていないと早死にをするよ。ハハハハ」
 可哀相にスッカリ気まりが悪くなった銀行家は、法螺丸の俥引《くるまひ》きにも劣るというミジメな烙印を捺《お》されて、スゴスゴと帰って行く。
 デモクラシーと社会主義の華やかなりし頃、法螺丸の処に居る秘書役みたいな書生さんが、或る時雑誌を買って来て、その中に書いてあるサンジカリズムの項を、先生の法螺丸氏に読んで聞かせた。するとその翌《あく》る日のこと、東京市長をやっていた親友の後藤新平氏が遣って来たので、法螺丸は早速引っ捉えて講釈を始めた。
 法螺丸「貴公はこの頃|仏蘭西《フランス》で勃興しているサンジカリズムの運動を知っているか」
 後藤新平「何じゃいサンジカリズムというのは……」
 法螺丸「これを知らんで東京市長はつとまらんぞ。今の社会主義やデモクラシーなんぞよりも数層倍恐ろしい破壊思想じゃ」
 後藤新平「ふうむ。そんな恐ろしい思想があるかのう。話してみい」
 法螺丸「心得たり」
 というので、昨日《きのう》聞いたばかりのホヤホヤのサンジカリズムの話を、その雑誌丸出しの内容に輪をかけたケレンやヨタ交りに、面白おかしく講釈すること約二時間、流石《さすが》の後藤新平氏も言句も出ずに傾聴すると「シンペイ」するなとも何とも云わずに、大急ぎで帰って行った。アトに昨日雑誌を読んで聞かせた書生さんが手に汗を握ったままオロオロしているのに気が付いた法螺丸、ハッとするにはしたらしいが、何喰わぬ顔で、
「面白いだろう。後藤新平というのは存外正直もんじゃよ」

 そもそも杉山法螺丸が、どこからこれ程の神通力を得て来たか。生馬《いきうま》の眼を抜き、生猿《いきざる》の皮を剥《は》ぎ、生きたライオンの歯を抜く底《てい》の神変不可思議の術を如何なる修養によって会得して来たか。
 請う先ず彼の青年に説くところを聞け。
「竹片《たけぎれ》で水をタタクと泡が出る。その泡が水の表面をフワリフワリと回転して、無常の風に会って又もとの水と空気にフッと立ち帰るまでのお慰みが所謂人生という奴だ。それ以上に深く考える奴がすなわち精神病者か、白痴で、そこまで考え付かない奴が所謂オッチョコチョイの蛆虫《うじむし》野郎だ。この修養が出来れば地蔵様でも閻魔《えんま》大王でも手玉に取れるんだ。人生はそう深く考えるもんじゃない。あんまり深く考えると、人生の行き止まりは三原山と華厳の滝以外になくなるんだ。三十歳まで大学に通ってベースボールをやる必要なんか無論ないよ」
「其日庵という俺の雅号の由来を知っているかい。これは俺の処世の秘訣なんだから、少々惜しいが説明して聞かせる。論語の中で会参は日に三度《みたび》己《おのれ》をかえりみると云った。基督《キリスト》は一日の苦労は一日にて足れりと云ったが、俺は耶蘇《やそ》教ではないが其日暮《そのひぐら》しが一番性に合っているようだね。……まず……朝起きると匆々から飯を喰う隙もないくらいジャンジャン訪問客が遣って来る。一番多いのが就職口と高利貸で、親の脛《すね》を噛じって野球をやったり、女給の尻を嗅ぎまわったり、豆腐屋の喇叭《ラッパ》みたいな歌を唄ったりした功労によって卒業免状という奴を一枚貰うと、そいつをオデコの中央に貼り付けて就職の権利でも授かった気で諸官庁会社を押しまわる。親爺《おやじ》も亦《また》親爺で、伜《せがれ》を育てるのと債券を買うのと同じ事に心得ているんだから遣り切れない。そこで就職出来ないとなると世の中が悪いと云って俺の処へ訴えに来る。俺が世の中じゃなし、知った限りではないんだが、そんな連中もたしかに世の中の一部分で、所謂大衆に相違ないんだから仕方なしに俺の責任みたような顔をして文句を聞いてやるんだ。高利貸は又高利貸で、勝手に俺の印形《いんぎょう》を信用して、手前一存の条件を附けて貸しやがった連中だ。中には一面識もない奴の借銭も混っているんだが、俺が議会に命じて作らせた法律というものを楯に取って来るから仕方ない。日歩《ひぶ》五銭ぐらいを呉れるつもりで会ってやるんだ。その次が大臣病患者、政権利権の脾胃虚病《ひいきょや》み、人格屋の私生児の後始末、名家名門の次男三男の女出入りの尻拭い、ボテレン芸者の身上相談、鼻垂れ小僧と寝小便娘の橋渡しに到るまで、アラユル社会の難物ばかりが、ハキダメみたいに杉山博士の診察、投薬を仰ぎに来る。しかもどの患者もどの患者も方々の名医の処を持ってまわって、コジラかした上にもコジラかした救うべからざる鼻ポンや骨がらみばかりがウヨウヨたかって来るんだから敵《かな》わない。
 もっともそういうこっちもお上《かみ》に鑑札を願っている専門医じゃないのだから、診察料や薬礼は一切取らない。その代りに万一助からなくたって責任は無い。殺すつもりで生かしたり、生かすつもりで殺したりする事も珍らしくないんだが、毛頭怨まれる筋はないんだから呑気な商売だ。ともかくも会ってやって、ともかくも病状を聞いてやる。金が有れば払ってやる。面識がある奴には紹介してやる。信用があれば小切手でも何でも書いてやる。それでも方法の附かない難物は、考えておいてやるから明日来いと云って一先《ひとま》ず追っ払っておく。むろん明日来たって明後日《あさって》来たって成算の立ちっこない難物ばかりだが、アトは野となれ山となれだ。その日一日を送りさえすればいいのだから、他人の迷惑になろうが、後《あと》になって大事件になることが、わかり切っていようが構わない。盲目滅法《めくらめっぽう》に押しまくってその日一日を暮らす。それから妻子《つまこ》や書生の御機嫌取りだが、これも生きている利子と思えば何でもない。好きな小説本か何か読んで何も考えずに寝てしまう。
 サテ翌る朝になったと見えて雀の声がする。パッチリと眼を開くとサア今日こそは大変な日だぞ。昨日《きのう》の尻は勿論の事、一昨日《おととい》、再昨日《さきおととい》……昨年、一昨年の尻が一時に固まって来る日だぞと覚悟して待っているとサア来るわ来るわ。あらん限りのヨタや出鱈目《でたらめ》を並べたり、恩人を裏切ったり、正直者を欺《だま》したりした方法でもって押し送って来た過去の罪業が、一時に鬨《とき》の声をあげて押しかけて来る。貴様が教えた通りに喋《しゃべ》ったら議会の空気が悪化して解散になりそうになった。万一解散になったら俺は一文も運動費が無いとあれほど云っておいたではないか、という代議士や、貴方のお世話で娘を嫁に遣ったら相手は梅毒の第三期だったと大声をあげて泣く母親や、先生から貰った小切手は銀行で支払いませんというのや、貴方の紹介状に限って大臣は会わないと云います。其日庵の紹介には懲《こ》り懲《ご》りだという話です。お蔭で会社が潰れて二百名の職工が路頭に迷いますというのや、貴方の乾分の弁護士の御蔭で三年の懲役が五年になりました。そのお礼を申上げに来ましたという紋々《もんもん》倶利迦羅《くりから》なんどが、眼の色を変えて三等急行の改札口みたいに押かけて来る。地獄に俺みたいな仏様が居るか居ないか知らないが、居るとしたら読むお経は一行も無いね。空気が在るから仕方なしに生きている。生きているから腹が減るのは止むを得ないという連中ばかりが、元来持って行き処のない尻を俺の処へ持って来るんだ。まあまあ待ったり、君等は自分の用事さえ済めば、アトは俺が死んでも構わない了簡《りょうけん》だろう。自分の尻を他人に拭いてもらう奴を小児《こども》といい、自分の垂れ物を自分で片付ける奴を大人という。君は元来大人なのか小供なのか。前をまくって見せろ……とか何とか云って追っ払ってしまうが、その手の利かない奴は、仕方がないから前に倍した手酷い手段で押し片付けて行く。明日の事は考えない。きょうさえ片付けばいいという方針だから、何を持って来たって驚かないんだ。
 尤《もっと》もこの頃は年を老《と》ったせいか、人に会うのと、字を書くのが大儀になった。心臓にコタエて息が切れたり脈が結滞《けったい》したりするから、面会と字書きを御免蒙っている。一方から云うと、そんな自分の尻を持て余しているような連中の尻をイクラ拭いてやったって相手は当り前だと心得ている。俺に尻を拭いてもらうのを楽しみにイクラでも不始末を仕出かす事になる。結局、そんな世話を続行するのは日本亡国の原因を作るようなものだとつくづくこの頃思い当ったせいでもあるんだがね」

 こうして縷述《るじゅつ》して来ると彼の法螺の底力は殆んど底止《ていし》するところを知らない。
「自ら王将を以て任ずる奴は天下に掃き棄てる程居る。金将たり、銀将たり、飛車角、桂香を以て自ら任じつつ飯喰い種にして行く者が滔々として皆|然《しか》りであるが、その飯喰い種を皆棄てて、将棋盤の外にいて将棋を指している奴は、なかなか居るものでない。だから世間の事が行き詰まるんだ。あぶなくて見ていられなくなるんだ」
 という、頭山満以上の超凡超聖的彼自身の自負的心境を、そっくりそのまま認めてやらなければならなくなって来るのであるが、彼とても人間である。時と場合によっては平凡人以下の血もあり涙もあるばかりでない。彼の手に合わない人物も多少は出現して来るのだから面白い。
 頭山満曰く、
「杉山みたような頭の人間が又と二人居るものでない。彼奴《きゃつ》は玄洋社と別行動を執《と》って来た人間じゃが、この間久し振りに合うた時には俺の事を頭山先生と云いおった。ところがその次に会うた時は『頭山さん』とさん付けにして一段格を落しおったから、感心して見ていると、三度目に会うた時は頭山君と云うて又一段調子を下げおった。今に俺を呼び棄ての小僧扱いにしおるじゃろうと思うて楽しみにして待っとる」
 これは杉山法螺丸の一番痛いところに軽く触れた言葉で、実に評し得て妙と云うよりほかはない。
 又或る時、杉山法螺丸が何かのお礼の意味か何かで、頭山満に千円以上もする銘刀を一口《ひとふり》贈った事がある。無論、飛切り上等の拵附《こしらえつ》きで、刀剣道楽の大立物其日庵主が大自慢のシロモノであったが、その後《のち》、法螺丸が頭山満を訪問して、
「どうだ。あの刀は気に入ったか」
 と云うと頭山満ニッコリして曰く、
「うむ。あれはええ刀じゃった。質屋に持って行ったら三十円貸したぞ。又あったら持って来てくれい」
 其日庵主もこれには少々驚いたらしい。帰って来て曰く、
「モウ頭山に物は遣らぬ。あいつの伜に遣った方がええ」

 法螺丸には男の児が一人しか居ない。これが親仁《おやじ》とは大違いの不肖の子で、
「俺みたいな人間になる事はならぬぞ」
 という訓戒を文字通
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