浪人生活者の中にはいつもその浪人式の圧迫力を利用して何かの利権を漁《あさ》っている者が多い。しかしその漁り得た利権を散じて、何等か浪人的立場に立脚した国家的事業に邁進するならばともかく、一旦、この利権を掴むと、今まで骨身にコタエた浪人生活から転向をして、フッツリと大言壮語を止め、門戸を閉して面会謝絶を開業する者が珍らしくない。又はこれを資本として何等かの政権利権に接近し、ついこの間まで攻撃罵倒していた、唯物功利主義者のお台所に出入《しゅつにゅう》して、不純な栄華に膨れ返っている者も居る。もっとも、そんなのは浪人の中でも、第一流に属する部類で、それ以下の軽輩浪人に到っては、浪人と名づくるのも恥かしいヨタモンとなり、ギャングとなり、又は、高等乞食と化しつつ、自分の良心は棚に上げて他人の良心の欠陥を攻撃し、頼まれもせぬのに天下国家、社会民衆の事を思うているのは自分一人のような事を云って、放蕩無頼の限りをつくし、親兄弟を泣かせている者も居る。生命《いのち》が惜しくて名誉が欲しくて、金《かね》や職業が、焦《こ》げつくほど欲しい浪人が滔々として天下に満ち満ちている状態である。
その中に吾が頭山満翁は超然として、一依旧様《いちいきゅうよう》、金銭、名誉なんどは勿論の事、持って生れた忠君愛国の一念以外のものは、数限りもない乾分《こぶん》、崇拝者、又は頭山満の沽券《こけん》と雖も、往来の古|草鞋《わらじ》ぐらいにしか考えていないらしい。否《いな》現在の頭山満翁は既に浪人界の巨頭なぞいう俗な敬称を超越している。そこいらにイクラでも居る好々爺ぐらいにしか自分自身を考えていないらしい。
嘗て筆者は数寄屋橋の何とか治療の病院に通う翁の自動車に同乗させてもらったことがある。その時に筆者は卒然として問うた。
「どこか、お悪いのですか」
「ウム。修繕《そそく》りよるとたい。何かの役に立つかも知れんと思うて……」
その語気に含まれた老人らしい謙遜さは、今でも天籟《てんらい》の如く筆者の耳に残っている。
以下は筆者が直接翁から聞いた話である。
「世の中で一番恐ろしいものは嬶《かかあ》に正直者じゃ。いつでも本気じゃけにのう」
「四五十年も前の事じゃった。友達の宮川太一郎が遣って来て、俺に弁護士になれと忠告しおった。これからは権利義務の世の中になって来るけに、法律を勉強して弁護士になれと云うのじゃ。その後、宮川は牛乳屋をやっておったが、まだ元気で居るかのう。俺に弁護士になれと云うた奴は彼奴《あいつ》一人じゃ」
又或時傍の骨格逞しい眼付きの凄い老人に筆者を引合わせて曰く、
「この男は加波山《かばさん》事件の生残りじゃ。今でも、良《え》え荷物(国事犯的仕事。もしくは暗殺相手の意)があれば直ぐに引っ担いで行く男じゃ」
「西郷南洲の旧宅を訪うたところが、川口|雪蓬《せつほう》という有名な八釜《やかま》し屋の爺《おやじ》が居った。ドケナ(如何なる)名士が来ても頭ゴナシに叱り飛ばして追い返すという話じゃったが、俺は南洲の遺愛の机の上に在る大塩平八郎の洗心洞※[#「答+りっとう」、第4水準2−3−29]記《せんしんどうさつき》を引っ掴んで懐中《ふところ》に入れて来た。それは南洲が自身で朱筆を入れた珍らしいものじゃったが、その爺《おやじ》が鬼のようになって飛びかかって来る奴を、グッと睨み付けてサッサと持って来た。それから俺は日本廻国をはじめて越後まで行くうちに、とうとうその本を読み終ったので、叮嚀《ていねい》に礼を云うて送り返しておいたが、ちょっと面白い本じゃったよ」
これ程の豪傑、頭山満氏がタッタ一つ屁古垂《へこた》れた話が残っているから面白い。
その日本漫遊の途次、越後路まで来ると行けども行けども人家の無い一本道にさしかかった。同伴者がペコペコに腹が減っていたのだから無論、大食漢の頭山満氏も空腹を感じていたに相違ないのであるが、何しろ飯屋は愚か、百姓家すら見当らないので、皆空腹を抱えながら日の暮れ方まで歩き続けた。
そのうちに、やっと一軒の汚ない茶屋が路傍《みちばた》に在るのを発見したので、一行は大喜びで腰をかけて、何よりも先に飯を命じた。ちょうど頭山満氏が第一パイ目の飯を喰い終るか終らない頃、その茶屋の赤ん坊が、頭山満氏のお膳の上の副食物を眼がけて這いかかって来るうちに、すこしばかり立上ったと思うと、お膳の横に夥しい粘液を垂れ流し、その上に坐って泣き出した。
それと見た茶屋の女房が、直ぐに走り上って来て、何かペチャクチャ云い訳をしながら、自分の前垂れを外して、その赤ん坊の尻を拭い上げて、その粘液の全部を前垂れにグシャグシャと包んで上り口から投げ棄てると、そのまま臭気芬々たる右手を頭山満氏の前に差出した。
「ヘイ。あなた、お給仕しましょう。もう一杯……」
頭山満氏黙々として箸《はし》を置いた。
「モウ良《え》え。お茶……」
頭山翁の逸話は数限りもない。別に一冊の書物になっている位だからここにはあまり人の知らないものばかりを選んで書いた。あんまり書き続けているうちに、諸君の神経衰弱が全癒《なお》り過ぎては却《かえ》って有害だからこの辺で大略する。
次は現代に於ける快人中の快人、杉山茂丸翁に触れて見よう。
[#改ページ]
杉山茂丸
杉山|茂丸《しげまる》なる人物が現代の政界にドレ位の勢力を持っているか、筆者は正直のところ、全然知らない。どんな経歴を以て、如何なる体験を潜りつつ、あの物すごい智力と、不屈不撓《ふくつふとう》の意力とを養い得て来たかというような事すら知らない。恐らく世間でも知っている人はあるまいと思われるので、筆者が知っているのは、そこに評価の不可能な彼……杉山茂丸の真面目《しんめんもく》がスタートしている事と、同時に、そうであるにも拘《かかわ》らず、その古今の名探偵以上の智力と、魅力とをもって、政界の裡面を縦横ムジンに馳けまわり、馳け悩まして行く、その怪活躍ぶりが今日《こんにち》まで、頭山満翁と同様に、新青年誌上に紹介されないのは嘘だという事を知っているのみである。
杉山茂丸は福岡藩の儒者の長男として生れた。そうして維新改革後、父母と共に先祖伝来の知行所に引込み、そこで自ら田を作り、鍬《くわ》の柄《え》や下駄を製作し、又は父から授かった漢学を父の子弟に講義し、小学校の先生もつとめた事もあるという。その他の智識としては馬琴《ばきん》、為永《ためなが》の小説や経国美談、浮城《うきしろ》物語を愛読し、ルッソーの民約篇とかを多少|噛《かじ》っただけである。中村|正直《まさなお》訳の西国立志篇を読んだか読まぬかはまだ聞いた事がないが、いずれにしても杉山茂丸事、其日庵主《きじつあんしゅ》の智情意を培《やしな》った精彩が、右に述べたような漢学|一《ひ》と通りと、馬琴、為永、経国美談、浮城物語、西国立志篇程度のもので、これに、後年になって学んだ義太夫の造詣《ぞうけい》と、聞き噛り式に学んだ禅語の情解的智識を加えたら、彼の精神生活の由来するところを掴むのは、さまで骨の折れる仕事ではあるまい。勿論彼の先天的に持って生まれた智力と、勇気は別問題にしての話である。
明治と共に生れ、明治と共に老いて来た彼は明治維新の封建制度破壊以後、滔々《とうとう》として転変推移する、百色《ひゃくいろ》眼鏡式の時勢を見てじっとしておれなくなった。このままに放任しておいたら日本は将来、どうなるか知れぬ。支那から朝鮮、日本という順に西洋に取られてしまうかも知れぬと思ったという。その時代の西洋各国の強さ、殊に英国や露西亜《ロシア》の強さと来たら、とても現代の青年の想像の及ぶところでなかったのだから……。
杉山茂丸は茲《ここ》に於て決然として起《た》った。頑固一徹な、明治二十年頃まで丁髷《ちょんまげ》を戴いて、民百姓は勿論、朝野の名士を眼下に見下していた漢学者の父、杉山三郎平|灌園《かんえん》を説き伏せて隠居させ、一切の世事に関与する事を断念させて自身に家督を相続し、一身上の自由行動の権利を獲得すると同時に、赤手空拳、メクラ滅法の火の玉のようになって実社会に飛出したのが、彼自身の話によると十六歳の時だったというから驚く。大学を卒業してもまだウジウジしていたり、親から月給を貰ってスイートホームを作ったりしている連中とは無論、比較にならない火の玉小僧であった。
その頃、彼の郷里、福岡で、豪傑ゴッコをする者は当然、一人残らず頭山満の率ゆる玄洋社の団中に編入されなければならなかった。だから彼も必然的に頭山満と交《まじわり》を結んで、濛々たる関羽髯《かんうひげ》を表道具として、玄洋社の事業に参劃し、炭坑の争奪戦に兵站《へいたん》の苦労を引受けたり、有名な品川弥二郎の選挙大干渉に反抗して壮士を指揮したりした。それが彼の二十歳から二十四五歳前後の事であったろうか。
しかし彼は他の玄洋社の諸豪傑連と聊《いささ》か選《せん》を異にしていた。その頃の玄洋社の梁山泊《りょうざんぱく》連は皆、頭山満を首領とし偶像として崇拝していた。頭山満が左の肩を揚げて歩けば、玄洋社の小使まで左の肩を怒らして町を行く。頭山満が兵児帯《へこおび》を掴めば皆同じ処を掴む……といった調子であったが、杉山茂丸だけはソンナ真似を決してしなかった。否、むしろ玄洋社のこうした気風に対して異端的な考えをさえ抱いていたらしい事が、玄洋社を飛出してから以後の彼の活躍ぶりによって窺《うかが》われる。
彼は玄洋社の旧式な、親分|乾分《こぶん》式の活躍、又は郷党的な勢力を以て、為政者、議会等を圧迫脅威しつつ、政界の動向を指導して行く遣口《やりくち》を、手ぬるしと見たか、時代|後《おく》れと見たか、その辺の事はわからない。しかし、たしかにモット近代的な、又は実際的な方法手段をもって、独力で日本をリードしようと試みて来た人間である事は事実である。
事実、彼には乾児《こぶん》らしい乾児は一人も居ない。乾児らしいものが近付いて来る者はあっても、彼の懐中《ふところ》から何か甘い汁を吸おうと思って接近して来る者が大部分で、彼の人格を敬慕するというよりも、彼の智恵と胆力を利用しようとする世間師の部類に属する者が多く、それ等の煮ても焼いても喰えない連中を巧みに使いこなして自分の仕事に利用する。そうして利用するだけ利用して最早《もはや》使い手がないとなると弊履《へいり》の如く棄ててかえりみないところに、彼の腕前のスゴサが常に発揮されて行くのである。嘗て筆者は彼からコンナ話を聞いた。
「福沢桃介という男が四五年前に、福岡市の電車を布設するために俺に接近して来たことがある。俺は彼に利用される振りをして、彼の金《かね》を数万円使い棄てて見せたら、彼奴《きゃつ》め、驚いたと見えて、フッツリ来なくなってしまった。ところが、この頃又ヒョッコリ来はじめたところを見ると、何喰わぬ顔をして俺に仇討《あだう》ちをしに来ているらしいから面白いじゃないか。だから俺も一つ何喰わぬ顔をして彼奴に仇《あだ》を討たれてやるんだ。そうして今度は前よりもウンと彼奴の金を使ってやるんだ。事によると彼奴めが俺に仇《あだ》を討ち終《おお》せた時が身代限りをしている時かも知れぬから見ておれ」
因《ちなみ》に彼……杉山其日庵主は、こうした喰うか喰われるか式の相手に対して最も多くの興味を持つ事を生涯の誇りとし楽しみとしている。そうして未だ嘗て喰われた事がないことを彼に対して野心を抱く人々の参考として附記しておく。
話がすこし脱線したが、其日庵主は玄洋社を離脱してから海外貿易に着眼し、上海《シャンハイ》や香港《ホンコン》あたりを馳けまわって具《つぶさ》に辛酸を嘗《な》めた。
その上海や香港で彼は何を見たか。
その頃は支那に於ける欧米列強の国権拡張時代であった。従って彼、杉山茂丸は、その上海や香港に於て、東洋人の霊と肉を搾取しつつ鬱積し、醗酵し、糜爛《びらん》し、毒化しつつ在る強烈な西洋文化のカクテルの中に、所謂|白禍《はっか》の害毒の最も惨烈なものを看
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