たら又一段と非凡離れがしている。つまるところは聖人以外の誰にでも出来る平々凡々振りであるが、その平々凡々振りが又なかなか容易に真似られないのだから不思議である。頭山翁の恐ろしさと偉大さは、その平々凡々なノンセンス振りの中に在ると云ってもいい位である。
 嘗て頭山翁が持っていた、北海道の某炭坑が七十五万円で売れた事がある。
 これを聞いた全日本の頭山翁の崇拝者連中、喜ぶまいことか、吾も吾もと押寄せて、当時霊南坂にあったかの頭山邸は夜も昼も押すな押すなの満員状態を呈した。下では幾流れとなく板を並べた上に食器を並べて、避難民式に雲集《うんしゅう》した書生や壮士が入代《いりかわ》り立代《たちかわ》り飯を喰うので毎日毎日戦争のような騒動である。また階上の翁の部屋では天下のインチキ名士連が翁を取巻いて借銭の後始末、寄附、運動費、記念碑建立、社会事業、満蒙問題なぞ、あらゆる鹿爪《しかつめ》らしい問題を提《ひっさ》げて、厚顔無恥に翁へ持ちかける。
 翁はそんな連中に対して面会謝絶をしないのみか、どんな事を頼まれても否《いや》とは云わない。黙々として話を聞き終ると金《かね》ならば金、印形《いんぎょう》なら印形を捺《お》してやってミジンも躊躇《ちゅうちょ》しない。市役所へハキダメの物でも渡すように瞬く間に七十五万円を費消してしまった。残るものは借金取りの催促と、雲集した書生壮士ばかりになってしまった。
 それでも、まだ印形や金を借りに来るものがある。しかも以前に、二度と来られないようなインチキで翁を引っかけて行った人間が、シャアシャアと又遣って来るのである。それでも翁は何も云わずに無理算段をした金を遣り、印形を貸す。翁の一家は、そのために、七十五万円の富豪から一躍、明日《あす》の米も無い窮迫に陥ってしまったが、それでも避難民張りの米喰虫は雲集するばかり……。
 或る人が見かねて、
「これはイカン。何とかしてコンナ恥知らずの連中を逐《お》い出さねば、先生の御一家は野タレ死にをしますぞ」
 と忠告した。翁はニコニコと笑って疎髯《そぜん》を撫でた。
「まあそう、急いで逐い出さんでもええ。喰う物が無くなったらどこかへ行くじゃろ」

 今一つノンセンス。翁と同郷の福岡に的野半助《まとのはんすけ》という愉快な代議士君が居た。(別人とも聞いているが)この代議士君……頭山先生は人物が出来とるから禅学をやったらキット成功する……というので翁を掴まえ、禅学を説き立てた。翁は黙ってウンウンとうなずきながら聞いていたが、とうとうこの愉快な代議士君に引っぱり出されて鎌倉の円覚寺に釈宗演和尚《しゃくそうえんおしょう》を訪う事になった。
 釈宗演和尚は人も知る禅風練達の英僧、且つ雄弁家で的野代議士の崇拝の的であった。さるほどに宗演老師は天下の豪傑頭山翁の来訪を喜んで、禅学に就いて弁ずる事|良久《ややしばし》。徐《おもむ》ろに翁に問うて曰《いわ》く、
「あんたは前にも禅学を志された事がありますかな」
 翁曰く、
「ウム。在る。しかし素人じゃ」
「ハハア。誰に就いて御修業なされましたかな」
 翁|傍《そば》に小さくなっている背広服の的野代議士をかえりみて、
「ナニ。コイツに習うただけじゃ」
 釈宗演和尚唖然。

 ツイこの間新聞を賑わした法政大学の騒動の時、教授の一人である山崎|楽堂《がくどう》氏が喜多文子《きたふみこ》五段の紹介か何かで単身、頭山翁を渋谷の自宅に訪問した。山崎楽堂氏は現代能評界に於ける一方の大御所で、単純率直、達弁の士である。
 湯から上って来た頭山翁は、翁の居間にチョコンと坐っている楽堂君を見ると突立ったまま云った。
「君一人か」
「ハイ」
 と答えつつ楽堂君は簡単に一礼した。翁はこの時既に法政騒動の成行《なりゆき》と、楽堂氏の性格に関する概念を掴んでいたらしい事を、この簡単な問答の中から推測し得べき理由がある。
 それから楽堂君が持って生まれた快弁熱語を以て滔々《とうとう》と法政騒動の真相を披瀝《ひれき》すると、黙々として聞いていた翁は、やがて膝の前に拡げられた法政騒動渦中の諸教授の連名に眼を落した。
「ウーム。あんまり複雑で、ワシにはよくわからんがのう。この教授の中で正しい事を主張しよる奴の頭の上に丸を附けてくれんか」
 楽堂君ちょっと呆れたが命令通りに自分の味方の諸教授連の頭の上に丸を附けて見せると翁はニコニコと笑顔を見せた。
「フーム。正しい奴の方が、不正な奴よりもズット多いじゃないか」
「ハイ」
 翁はマジマジと楽堂君の顔を見た。
「フフ。意気地《いくじ》がないのう。人数《にんず》の多い方が負けよるのか」
 楽堂君は返事に窮した。こう端的に子供アシライにされようとは思わなかったので、眼をパチパチさせていると翁は一層ニコニコし出した。
「ウムウム。まあええから、そげな騒動しよる連中を皆一緒にここへ連れて来なさい。わしが聞き役になってやるけに、両方で議論してみなさい。わしが正しい方に加勢してやる」
 山崎楽堂氏は大喜びで帰ってこの旨を全教授に通告した。しかし折角の翁の心入れも、楽堂氏と反対側の諸教授の不出席によってオジャンとなったという。法政騒動裏面史の一席……。

 どうしてコンナ巨大な平凡児が日本に出現したかという……つまり頭山満の立志伝を書けと云われると筆者も少々困る。頭山満翁には、元来立志伝なるものがない。古往今来、あらゆる英雄豪傑は皆、豪《えら》い者になろうと志を立ててから、その志に向って勇往|邁進《まいしん》したに相違ない。つまるところ志を立てなければ豪《えら》い者になれない訳であるが、頭山翁の生涯を見ると、その志なるものを立てた形跡がない。従ってその立志伝なるものの書きようがないから困るのだ。
 勿論、頭山翁は若い時代に、維新後の日本が、西洋文化に心酔した結果、日に月に唯物的に腐敗堕落して行く状況を見て、これではいけないぐらいの事は考えたかも知れないが、それを救うためには自分が先《ま》ず大人物にならなければとか、実社会に有力な人物にならなければとか、又は大衆の人気を集めなければとか、人格者として尊敬されなければ……とかいったようなセセコマしい志を立てた形跡はミジンもない。持って生れた平々凡々式で、万事ありのまんまの手掴みで片付けて来ている。そこが頭山翁の古来ありふれた人傑と違っている点で、その平々凡々式の行き方が又、筆者をして頭山翁を好きにならしめた第一の条件になっているらしいのだ。
 事実、頭山翁を平凡人なりと断定されて腹を立てる取巻きの非凡人諸君の中には、頭山翁が超特級の非凡人でなければ差支える連中が多いようである。頭山翁の爪の垢を煎《せん》じて第一に服《の》ませてやりたい人間は、頭山翁を取巻くそんな非凡人諸君に外ならないのだ。
 維新後、天下の大勢を牛耳って、新政府の政治と、新興日本の利権とを併せて壟断《ろうだん》しようと試みた者は、所謂、薩長土肥の藩閥諸公であった。その藩閥政治の弊害を打破るべく今の議会政治が提唱され初めたものであるが、そもそもその薩長土肥の諸藩士が、王政維新、倒幕の時運に参劃《さんかく》し、天下の形勢を定めた中に、九州の大藩筑前の黒田藩ばかりが何故に除外されて来たのか。筑前藩には人物が居なかったのか。もしくは居るとしても、天下を憂い、国を想う志士の気骨《きこつ》が筑前人には欠けていたのかというと、ナカナカそうでない。事実はその正反対で、恐らく日本広しと雖《いえど》も北九州の青年ほど天性、国家社会を患《うれ》うる気風を持っている者はあるまいと思われる。そうした事実は、明治、大正、昭和の歴史に出て来る暗殺犯人が大抵、福岡県人である実例を見ても容易に首肯出来るであろう。
 維新前の黒田藩には、西郷南洲、高杉晋作に比肩すべき大人物がジャンジャン居た。流石《さすが》の薩州も一時は筑前藩の鼻息ばかりを窺《うかが》っていた位である。有名な野村|望東尼《ぼうとうに》を仲介として西郷、高杉の諸豪は勿論、その他の各藩の英傑が盛んに筑前藩と交渉した形勢は、筆者の幼少の時に屡々《しばしば》、祖父母から語って聞かされた事である。但しそれ等筑前藩の諸英傑が、何故に維新以後、音も香《におい》もなくこの地上から消え失せてしまったかという、その根元の理由に考え及ぶと、筆者も筆を投じて暗然たらざるを得ないものがある。
 筆者の祖先は代々黒田藩の禄《ろく》を喰《は》んでいた者だから黒田様の事はあまり云いたくない。しかし何故に維新後に筑前閥が出来なかったか……という真相を明らかにするためには、どうしても左《さ》の二つの事実を挙げなければならぬ事を遺憾とする。
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一、当時の藩公が優柔不断であった事。
二、黒田藩士が上下を問わず人情に篤《あつ》く、従って藩公に対する忠志が、他藩の藩士以上に潔白であった事。
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 ところでここで今一つ、了解しておいてもらわねばならぬ事は、昔の各藩の藩士が日本の国体を知らなかった……換言すれば昔の武士というものは、自分の藩主以外に主君というものは認識していなかった事である。
 これは誠に怪《け》しからぬ事で、今の人には到底考えられない、同時にあまり知られていない大きな事実で、同時に時節柄、御同様まことに不愉快な史実ででもあり得るのであるが、しかしこの史実を認識しないで明治維新の歴史を読んでいると飛んでもない錯覚に陥る事がある。すくなくとも王政維新なる標語を各藩に徹底させるのが、どうして、あんなに骨が折れたのかと不思議の感に打たれるので、黒田藩では特にこうした傾向が甚しかった事が窺われるようである。
 そこへ藩公が優柔不断と来ているからたまらない。佐幕派が盛んになると勤王派の全部に腹を切らせる。そのうちに勤王派が盛り返すと今度は佐幕派の全部を誅戮《ちゅうりく》する。そうすると藩士が又、揃いも揃った正直者ばかりで、逃げも隠れもせずにハイハイと腹を切る……といった調子で、最初から一方にきめておけば、どちらかの人物の半分だけは救われたろうに、藩論が変るごとに行き戻りに引っかかってバタバタと死んで行ったのだからたまらない。とうとう黒田藩の眼星《めぼ》しい人物は、殆んど一人も居なくなってしまった。たまたま脱藩して生野《いくの》の銀山で旗を挙げた平野次郎ぐらいが目っけもの……という情ない状態に陥った。
 しかし世の中は何が仕合わせになるか、わからない。こうした事情で明治政府から筑前閥がノックアウトされたという事が、その後《のち》に於ける頭山満、平岡浩太郎、杉山茂丸、内田良平等々の所謂、福岡浪人の濶歩《かっぽ》の原因となり、歴代内閣の脅威となって新興日本の気勢を、背後から鞭撻しはじめた。……何も、それが日本のために仕合せであったに相違ないと断定する訳ではない。随分迷惑な筋もあったに違いないが、しかしそうした浪人の存在が、西洋文化崇拝の、唯物功利主義の、義理も、人情も、血も、涙も、良心も無い、厚顔無恥の個人主義一点張りで成功した所謂、資本家、支配階級の悩みの種となり、不言不語の中《うち》に日本人特有の生命《いのち》も要らず名も要らず、金《かね》も官位も要らぬ底《てい》の清浄潔白な忠君愛国思想を天下に普及、浸潤せしめた功績は大いに認めなければならぬであろう。
 従って歴史に現われない歴史の原動力として、福岡人を中心とする所謂九州浪人の名を史上に記念しておく必要がないとは言えないであろう。

 勿論浪人と雖《いえど》も生きた血の通う人間である。家族もあれば睾丸《きんたま》もある。生命《いのち》も金《かね》も官位も要らないとか何とか強情を張るにしても、そんな場面にぶつかる迄に何とかして喰い繋いで生きて行かなければならない。況《いわ》んやその命を捧げた乾児《こぶん》どもが、先生とか、親分とかいって蝟集《いしゅう》して、たより縋《すが》って来るに於てをやである。浪人生活の悩みは実に繋《かか》ってこの一点に存すると云っても過言でない。
 だから……という訳でもあるまいが、彼等
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