つ》いて行きましたが、その中《うち》に又、世界中で私一人しか知らん奇妙な魚類《さかな》をば見付けました」
「フーン。そんな魚が居《お》るかな」
「居るか居らんか、私も呆れました。鯨の新婚旅行に跟随《つい》て行く馬鹿者が私一人じゃないのです。ちょうど大きな鮫《さめ》のような恰好で、鯨の若夫婦のアトになりサキになり、どうしても離れません。鯨の二匹が、私の船を恐れて水に潜《くぐ》っても、その青白い鮫の姿を目当てに行けば金輪際、見のがしません」
「ウーム。妙な奴が居るものだな」
「アトから古い漁師に聞いてみましたら、それは珍らしいものを見なさった。それはやっぱり鮫の仲間で、鯨の新婚旅行には附き物のマクラ魚《うお》チウ奴《さかな》で……」
「馬鹿。モウ止めろ。何を云い出すやら……」
「イイエ。決して嘘は云いまっせん。生命《いのち》がけで見て来たのですから。これからがモノスゴイので……私はそのマクラ魚を見た時に感心しました。流石《さすが》に鯨はケダモノだけあって何でも人間と同じこと……と思って、なおも一心になって跟《つ》いて行くうちに夜になると鯨の新夫婦が浪《なみ》の上で寝ます。青海原の星天井で山のような浪また浪の中ですけに宜《よ》うがすなあ……四海浪《しかいなみ》、静かにてエー……という歌はここの事ばいと思いましたなあ。しかし何をいうにもあの通りのノッペラボー同志ですけに浪の上では、思う通りに夫婦の語らいが出来《でけ》まっせん。そこで最初《さいぜん》から尾《つ》いて来たマクラ魚が、直ぐに気を利かいて枕になってやる……」
「アハハハハ。馬鹿馬鹿しい」
「アハアハアハアハ。ああ苦しい。モウその話やめてエッ」
「イヤ。笑いごとじゃありません。鮫という魚《さかな》は俗に鮫肌と申しまして、鱗《うろこ》が辷《すべ》らんように出来ておりますけに、海の上の枕としては誠にお誂《あつら》え向きです。しかし何をいうにも何十|尋《ひろ》という巨大《おおき》な奴が、四方行止まりのない荒浪《あらうみ》の上で、アタリ憚からずに夫婦の語らいをするのですから、そこいら中は危なくて近寄れません。大抵の蒸気船や水雷艇ぐらいは跳ね散らかされてしまう。岸近くであったら大海嘯《おおつなみ》が起ります。その恐ろしさというものは、まったくの生命《いのち》がけで、月明りをタヨリに、神仏《かみほとけ》の御名《おんな》を唱えながら見ておりましたが……」
「……ああ……ああ……もうソノ話やめて……あたしゃ……あたしゃ死ぬるッ……」
「それから夫婦とも波の上で長うなって夜を明かしますと又、勇ましく潮を吹いて、鰯の群を逐《お》いかけ逐いかけサムカッタの方へ旅立って行きます」
「サムカッタじゃない。カムサッカだろう」
「あっ。そうそう。何でも寒い処と思いました。ヒョットすると鯨の若夫婦が云うたのかも知れません。ネエちょいと……昨夜《ゆんべ》はカムサッカねえ……とか何とか……」
「馬鹿にするな」
「そこで感心するのは今のマクラ魚です。若夫婦の新婚の夜が明けますとコイツが忽ち大活躍を始めますので、若夫婦の身のまわりにザラザラした身体《からだ》をコスリ付けて、スッカリ大掃除をしながら、アトから跟《つ》いて行きます、つまるところこのマクラ魚という奴は鯨の新婚旅行が専門に生れ付いた魚で、枕になってやったり後《あと》の掃除をしてやったりしながら、カムサッカでもベンガラ海でもアネサン島の涯《はて》までも、トコ厭《いと》やせぬという……新婚旅行のお供がシンカラ好きな魚らしいですなあ」
爆笑。又爆笑。狂笑。又死笑。皆、頭を抱え、畳の上を這いまわって笑い転げた。流石《さすが》の謹厳な八代大将も総|義歯《いれば》をハメ直しハメ直し鼻汁《はな》と涙を拭い敢えず、苦り切ってシキリに汗を拭いていた武谷博士も、とうとう落城してニヤリとしたのが運の尽き。しまいにはアンマリ笑い過ぎて眼鏡の玉の片方をなくする始末。その中《うち》にタッタ一人林技師が如何にも不満そうにグビリグビリと手酌でやっているのを見た人の悪い令兄が、
「オイ。駒生。何とか註釈を入れんか」
と嘲弄したが、林技師が額の生汗《なまあせ》を拭いて坐り直した。
「ハイ。註釈の限りではありません」
と云ったので満座又絶倒……。
(下)
かくして篠崎仁三郎の名は、次第次第に博多ッ子の代表として、花川戸の助六や、一心太助の江戸ッ子に於けるソレよりも遥かにユーモラスな、禅味、俳味を帯びた意味で高まって行った。
どんな紛争事件《もめごと》でも仁三郎が呼ばれて行くと間違いなく大笑いに終らせる。しかも女出入り。金銭出入《かねでいり》。縄張りの顔立てなぞに到るまで、決して相手を高飛車にキメ附けるような侠客《きょうかく》式の肌合いを見せない。そうかといって下手《したて》に出て御機嫌を取ったり、ヨタを飛ばして煙に巻いたりするような小細工もしない。いつもザックバランの対等の資格で割り込んで行って、睨み合い同志の情をつくさせ、義をつくさせて、相互の気分にユトリを作らせ、お互い同志が自分の馬鹿にウスウス気付いたところを見計《みはか》らってワッと笑わせて、万事OKの博多二輪加にして行く手腕に至っては、制電《せいでん》の機、無縫《むほう》の術、トテモ人間|業《わざ》とは思えなかった。通夜の晩などに湊屋が来ると、棺の中の仏様までも腹を抱えるという位で、博多魚市場の押しも押されもせぬ大親分として、使っても使っても使い切れぬ金《かね》が、二三万も溜まっていようかという身分になった。そうして篠崎仁三郎の一生はイトも朗らかに笑い送られて行ったのであった。
しかも天の配剤というものは誠に、どこまで行き届くものかわからないようである。その篠崎仁三郎の一生が、あまりにも朗らかであり過ぎたために、その五十幾歳を一期として死んで行く間際に当って一抹の哀愁の場面が点綴《てんてつ》されることになったのはコトワリセメて是非もない次第であった。
しかもその悲哀たるや尋常一様の悲哀でなかった。笑うには笑われず、泣くにはアマリに非凡過ぎる……といったような、実に篠崎仁三郎一流のユーモラスな最期を遂げたのであった。それは地上、如何なる凡人、又は非凡人の最期にも類例のない……同時に如何なる喜悲劇、諷刺劇の脚本の中にも発見出来ない、セキスピアもバナードショオも背後に撞着《どうちゃく》、倒退《とうたい》三千里せしむるに足る底《てい》の痛快無比の喜悲劇の場面を、生地《きじ》で行った珍最期であった。
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…註曰…篠崎仁三郎氏の晩年には、他人ばかりの寄合世帯で一家を作っていたために、色々と複雑な事情が身辺にまつわり附いていたが、ここにはそのような事情の一切を省略し、それ等の中心問題となっていた事実のみを記載するつもりである…。
[#ここで字下げ終わり]
篠崎仁三郎氏が五十四の年の春であったか……腎臓病に罹《かか》って動きが取れなくなった。そこで自然商売の方も店員任せにして自宅で床に就いていたが、平常《へいぜい》でさえ肥っていたのに、素晴らしく腫れ上ってまるで、洪水《おおみず》で流れて来たみたような色と形になってしまった。瞼《まぶた》なんか腫れ塞がってしまって、どこに眼があるのかわからない位で、そのままグングン重態に陥って行った。
枕頭に集まる者は湊屋の生前の親友であった魚市場と青物市場の連中ばかりで、一人残らず無学文盲の親方《おやぶん》連中であったが、それでも真情だけは並外れている博多ッ子の生粋《きっすい》が顔を揃えていた。最早《もはや》湯も水も咽喉《のど》に通らなくなって、この塩梅《あんばい》ではアト十日と持つまい……という医師の宣告を聞くと、一同の代表みたような親友中の親友、青柳喜平氏が二十四|貫《かん》の巨躯を押し出し、篠崎仁三郎氏の耳に口を附けた。
「……オイ仁三郎……貴様はホンナ事に女房と思う女も、吾《わ》が後嗣と思う子供も無いとや……」
篠崎仁三郎は生前、妻子の事なんか一度も口にした事がなかった。しかし長崎に居た頃一人の情婦みたような女があってソレに女の児を一人生ませているという噂を、皆、聞いていたので、それを慥《たし》かめるために青柳喜平氏がこう聞いたのであった。
湊屋仁三郎は仰臥したまま黙ってうなずいた。やっと眼をすこしばかり開いて、布団の裾《すそ》の方の箪笥《たんす》の上の小箪笥を腫れぼったい指で指すので、その中を探してみると手紙が一パイ詰まっている。それが皆、長崎から来た女文字の手紙ばかりで、金釘流の年増らしいのは母親の筆跡であろう。若い女学生らしいペン字は娘の文章らしかった。焼野《やけの》の雉子《きぎす》夜の鶴……為替の受取なぞがチラチラ混っている。そこで一同の中から二人の代表が選まれて、その手紙の主を長崎へ迎いに行く事になった。
その手紙の主は仁三郎が長崎に居る時分に関係していた浮気稼業の女であったが、なかなか手堅い女で、仁三郎と別れた後《のち》に、天主教の信仰に熱中し、仕送って来た金《かね》で一人の娘を女学校に通わせて卒業させていたものであった。
湊屋仁三郎の余命がモウ幾何《いくばく》もない。だからタッタ一人の血のキレとして残っている娘にアトを継がせたいために迎えに来たと二人の代表が説明すると、彼女は娘と手を執り合って泣き出したので、二人の代表が覚悟の前ながら相当貰い泣きさせられた。しかしここに困ることには天主教の教理として、母親と父親が神様の御前で正式の結婚式を挙げていない限り、娘と親子の名乗りをさせる訳に行かない事になっている。しかもそのような事態ではトテモ結婚式を挙げる訳に行くまいが……耶蘇《やそ》教の苅萱道心《かるかやどうしん》みたような事になりはしないか、という母親の懸念であったが、そこは大掴みな豪傑代表が二人も揃っていたので、大請合いに請合って、首尾よく母子《おやこ》二人を連れて博多に戻って来た。直ぐに福岡市大名町に在る赤煉瓦の天主教会へ代表二人で乗込んでこの今様苅萱道心問題を解消さすべく談判を試みる事になったが、そこへ出て来た宣教師のジョリーさんという仏蘭西《フランス》人が、日本人以上に日本語がよくわかる上に、日本人以上に粋《すい》を利かせる人だったので助かった代表二人の喜びと安心は非常なものがあったという。
その時の談判の結果、いよいよ結婚式の当日になると、湊屋の病床を中心にして上座に、新婦と娘、天主教会員、花輪なぞ……下座には着慣れぬ紋付袴の市場連中がメジロ押しに並んだ。が、流石《さすが》に盛装した新婦と娘は、変り果てた夫であり父である仁三郎の姿を見てシクシクと泣いてばかりいた。
そこへ宣教師の正装をしたジョリーさんを先に立てた和洋人の黒服が四五人ばかり、銀色の十字架を胸に佩《お》びてゾロゾロと乗込んで来たので、居住居《いずまい》を崩していた羽織袴連中は、今更のように眼を聳《そばだ》てて坐り直した。
式は型の如く運んだ。ジョリーさんが羅馬《ローマ》綴で書いた式文みたようなものを読み上げる時には皆起立させられたが、モウ足が痺《しび》れて立てない者も居た。
「|吾等の《ウワアルエールアヌオ》……|兄弟が《キヨダイガ》……|神様の《クワミイサアマヌオ》……|思召に《オボスイメスイニ》……|よりまして《イヨルイモアシテイ》……」
というのを、一同は英語かと思って聞いていたという。以下引続いて儀式の模様を、済んだあとからの彼等の帰り途の批評に聞いてみる。
「耶蘇教の婚礼なんてナンチいう、フウタラ、ヌルイ(風多羅《ふうたら》緩《ぬる》い? 自烈度《じれった》いの意)モンや」
「そうじゃない。あれあ大病人の祝言じゃけに、病気に障《さわ》らん様《ごと》、ソロオッと遣ってくれたとたい。毛唐人なあ気の利いとるケニ」
「一番、最初に読んだ分《と》は何じゃったろうかいね」
「あれあ神主がいう高天《たかま》が原たい。高天が原に神づまり在《ま》しますかむろぎ、かむろぎの尊《みこと》――オ……」
「うむ。そういえば声が似とる。成る程わからん事
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