は貴様達二人が貰われるように、証文をば書いておけと云いよるのじゃろう」
「その通りその通り。貴様は話がようわかる」
「そんならその保険に掛ける金は、誰が掛けるとかいネエ。貴様達が掛けるか……」
「馬鹿云え。知れた事。貴様の保険じゃけに、貴様が掛けるにきまっとるじゃないか」
「……馬鹿ッ……帰れッ……」
青柳に大喝された水野は、上り口から飛降りて、下駄を提げたまま二三町無我夢中で走った。その白足袋を宙に舞わして逃げて行った恰好が、今思い出しても可笑《おか》しいと青柳喜平氏は筆者に語った。
「怪《け》しからん親友もあればあるものです。私が肥っているのを見て煮て喰いとうなって保険の鍋《なべ》に這入れとすすめに来る奴です。彼奴等《あいつら》の無学文盲にも呆れました」
吉報を待ってチビリチビリやっていた仁三郎は、門口から悄然《しょうぜん》と何か提げて這入って来た水野を見てビックリした。
「どうしたとや。何をば提げて来たとや」
水野は黙って下駄を出して見せた。頭を掻きながらタメ息を吐《つ》いた。
「詰まらん。青柳は知っとる」
篠崎もソレとわかって長大息した。
「そうか。知っとっちゃ詰まらん」
末後の一句、甚だ無造作。本来無一物。尻喰《けつくら》え観音である。こうなると人格も技養もない。日面仏。月面仏。達磨《だるま》さん。ちょとコチ向かしゃんせである。更に挙《こ》す。看よ。
前述の朝鮮、漁業組合長、林駒生氏は朝鮮第一の漁業通であり且、水産狂である。苟《いやしく》も事水産に関する話となると、身分の高下、時の古今、洋の東西を問わない。尽くタッタ一人で説明役にまわって滔々《とうとう》数時間、乃至《ないし》、数十日間に亘り、絶対に他人に口を入れさせないので、歴代の統監、農林、商工の各大臣、一人として煙《けむ》に捲かれざるなく、最少限、朝鮮沿海に関する問題については、視察に来る内地の役人を尽く馳け悩まして、一毫も容喙《ようかい》の余地なからしめた。或る材木商の如きは、同氏に話込まれたために新義州の材木に手附を打ち損ね、数万円の損害を受けたという程の雄弁家である。
その林駒生氏が嘗てこれも座談の名士として聞えた長兄、杉山茂丸氏と福岡市吉塚|三角在《みすみざい》、中島徳松氏の別荘に会し、久濶《きゅうかつ》を叙《じょ》し、夕食の膳に就いた。同席のお歴々には故八代大将、前九大教授武谷医学博士、福岡随一の無鉄砲有志、古賀壮兵衛氏、現|釜山《ふざん》日報主筆、篠崎昇之助氏、その他、水茶屋《みずぢゃや》券番《けんばん》の馬賊五人組芸者として天下に勇名を轟かしたお艶《えん》、お浜、お秋、お楽、等々その中心の正座が勿体なくも枢密院顧問、八代大将閣下であっただけに極めて厳粛な箸《はし》の上げ卸《おろ》しで、話題は八代閣下の松葉の食料法を武谷博士、林駒生氏が固くなって謹聴し、記者として列席していた筆者がシキリにノートを取っている……といった場面であったように思う。
ところへ表の扉《ドア》がガラリと開いて、湊屋の仁三郎が這入って来た。春雨に濡れた問屋張《といやばり》の傘を畳んで、提げて来た中鯛を五六匹土間に投出したスタイルは、まことに板に附いたもので、浴衣の尻を七三に端折《はしお》った素跣足《すはだし》である。親友の林駒生氏が振返って声をかけた。
「おお。湊屋じゃないか。この寒いのに風邪を引くぞ」
湊屋は頬冠《ほおかむり》を取って手を振った。
「イカンイカン。これは医学博士でも知らん。自動車に乗る人間には尚更わからん。日本人一流、長生きの法たい」
「今その長生き話が出とるところじゃ。貴公の流儀を一つ説明してみい」
「説明もヘッタクレもあれあせん。雨の降る日に傘さいて跣足《はだし》で歩きまわれば、それで結構……そこで『オオ寒む』とか何とか云うてこの中鯛で一杯飲んでみなさい。明日《あした》死んでも思い残す事あない」
「アハハハ。賛成賛成」
武谷博士が妙な顔をした。蓋《けだし》、同博士は同大学切っての謹厳剛直の士で、何事に限らず科学的に説明の出来ないものは一毫も相容れない性分であったので、八代大将の松葉喰いの話で少々お冠《かんむり》を曲げて御座るところへ、湊屋一流の無学文盲論が舞込んで来たのでまさか議論の相手にもならず、ますます御機嫌が傾いた次第であった。しかし湊屋仁三郎は博士であろうが元帥《げんすい》であろうが驚ろかなかった。サッサと裏へ廻って足を洗って上って来た。
「ヘエ。皆さん。今晩は……今台所の婆さんに洗わせよる、昨夜《ゆんべ》まで玄海沖で泳ぎよった魚じゃけに、洗いに作らせといた」
「ちょうど今長生きの話が出とるところじゃったが、ええところへ来た。貴公なんぞは長生きの大将と思うが……そんな気持ちはせんか」
と杉山茂丸氏が水を向けた。
「ハハハ。人間はアンマリ長生きせん方が良《え》えと思いますなあ。人間一代山は見えとる。長生きしようなんて考えるだけで寿命が縮まるなあ。八代さん。美味《うま》い酒をば飲むだけ飲うで、若い女子《こども》は抱くだけ抱いて、それでも生きとれあ仕様がない。又、明日《あした》の魚は糶《せ》るだけの話たい……なあ武谷先生……」
八代閣下と武谷博士がグウとも云えないまま苦々しい顔になった。社交家の杉山茂丸氏が透《す》かさず話題を転じた。鍋の中でグツグツ煮えている鯨のスキ焼の一片を挟み上げて令弟、林駒生技師に提示した。
「オイ。駒生。この肉は鯨の全体でドコの肉に当るのかね」
サア事だ。林水産狂技師の得意の話題に触れたのだ。油紙に火が附いた以上の雄弁の大光焔がどうして燃上らずにおられよう。八代大将の松葉も、湊屋仁三郎の短命術も太陽の前の星の如くに光を失わずにはおられなかった。
「そもそも鯨というものは」……というので咳《がい》一咳。先ず明治二十年代の郡司大尉の露領沿海州荒しから始まって、肥後の五島列島から慶南、忠清、咸竟《かんきょう》南北道、図們江《ツーメンキャン》、沿海州、樺太《からふと》、千島、オホーツク海、白令《ベーリング》海、アリュウシャン群島に到る暖流、寒流の温度百余個所をノート無しでスラスラと列挙し、そこに浮游する褐藻《かっそう》、緑藻《りょくそう》の分布、回游魚の習性を根拠とする鯨群の遊弋《ゆうよく》方向に及び、日本の新旧漁法をスカンジナビヤ半島の様式に比較し、各種の鯨の肉、骨、臓器、油の用途、価格、販路、英領|加奈陀《カナダ》との競争状態といったような各項に亘って無慮、数千万語、手を挙げ眉を展《の》ばして熱弁する事、約二時間半、夕食が終って、電燈が灯《つ》いてもまだ結論が附かない。やっと二度目のお茶が出てから、
「今の鯨の肉は、鯨の尾の附根に当る処で、肉の層がアーチ型になっている処です。鯨肉の中でも極上|飛切《とびきり》の処で、小鳥や牛肉でも追付かない無上の珍味だったのです」
という結論が附いた。しかし残念な事にこの時には流石《さすが》に謹厳剛直の国家的代表者、八代大将閣下も、武谷広博士も完全に伸びてしまっていた。勿論、二人とも最初は林技師の蘊蓄《うんちく》の物凄いのに仰天して膝を乗出して傾聴していたものであったが林技師大得意のスカンジナビヤ半島談あたりからポツポツ退屈し初めたらしく、二人ともアンマリ欠伸《あくび》を噛み殺して来たためにスッカリ涙ぐんでしまっていた。令兄の杉山茂丸氏の如きは、そのズッと以前から後悔の臍《ほぞ》を噛んでいたらしい。警告の意味で、故意と声を立てて大きな欠伸《あくび》を連発していたが、それでも白浪を蹴って進む林技師の雄弁丸が、どうしてもSOSの長短波に感じないので、とうとう精も気魄《きはく》も尽き果てたらしく、ゴリゴリと巨大なイビキを掻き始めた。それを笑うまいとしている芸者連が、必死にハンカチで口を押えている始末……。
しかし林技師の雄弁丸は物ともせずにグングンスチームを上げて行った。俄然《がぜん》として英領|加奈陀《カナダ》の缶詰業に火が移った。続いて露領沿海のタラバ蟹に延焼し、加察加《カムサッカ》の鮭、鰊《にしん》と宛然《さながら》に燎原《りょうげん》の火の如く、又は蘇国《ソヴェート》の空軍の如く、無辺際の青空に天翔《あまかけ》る形勢を示したが、その途端、何気なく差した湊屋の盃を受けて唇に当てたのが運の尽き、一瞬の中《うち》に全局面を、無学文盲の親友に泄《さら》われてしまった。
「フウム。これは感心した。日本中で鯨の事を本格に知っとる者《もん》なら私一人かと思っておったが、アンタもいくらか知っとるなあ」
「失敬な事を云うな仁三郎。林駒生はこれでも総督府の技師だ。事、水産に関する限り、知らんという事は只の一つも無いのが職分だぞ。そのために中佐相当官の待遇を……」
「ふむ。わかったわかった。それなら聴くがアンタは鯨の新婚旅行をば、見なさった事があるかいな」
「ナニ。鯨の新婚旅行……」
芸妓《げいしゃ》連中が一斉に爆笑した。八代、武谷両聖人が今更のように眼をパチクリして湊屋の顔を凝視しているところへ、鼾《いびき》を掻き止めた令兄杉山茂丸氏がムクムクと起上って、赤い眼をコスリコスリ、
「ハハア。新婚旅行……誰が……」
と云ったので今一度、爆笑が起った。
林水産技師は憮然として投出した。
「……そんなものは……見ん……元来鯨は……」
「それ見なさい。知るまいが。イヤ。それは大椿事《おおごと》ですばい。鯨の新婚旅行チュータラ……」
と仁三郎が間髪を容れず引取った。
「イヤ。トテモ大椿事《おおごと》ですばい。アンタ方は知りなさるまいが、鯨はアレで魚じゃない。獣類《けだもの》ですばい」
「ウム。それはソノ鯨は元来哺乳類……」
「まあ待ちなさい。それじゃけに鯨は人間と同じこと、三々九度でも新婚旅行でも何でもする。私ゃ大事な研究と思うたけに、実地について見物して来た。しかも生命《いのち》がけで……」
「アラ。まあ。アンタ見て来なさったと……」
「お前たちに見せてやりたかったなあ。その仲の良《え》え事というものは……お前たちは人間に生れながら新婚旅行なんてした事あ在《あ》るめえ」
「アラ。済まんなあ。新婚旅行なら毎晩の事じゃが」
「アハハ。措《お》きなはれ。阿呆《あほ》らしい」
「阿呆らしいどころじゃない。権兵衛が種蒔きなら俺でも踊るが、鯨のタネ蒔きバッカリは真似が出来ん。これも学問研究の一つと思うて、生命《いのち》がけで傍《にき》へ寄って見たが、その情愛の深いことというもんなア……あの通りのノッペラボーの姿しとるばってん、その色気のある事チュタラなあ。ちょっとこげな風に(以下仁三郎|懐手《ふところで》をして鯨の身振り)」
「アハハハハ……」「イヒヒヒ」
「オイ仁三郎……大概にせんかコラ……」
「海の上じゃけに構わん。牡も牝も涎《よだれ》を流いて……」
「アラッ。まあ。鯨が涎をば流すかいな……」
「流すにも何にもハンボン・エッキスちうて欝紺色《うこんいろ》のネバネバした涎をば多量《したたか》に流す」
「……まあ。イヤラシイ。呆れた」
「ハンボン・エキス……ハハア。リウマチの薬と違いますか」
と武谷博士が大真面目で質問した。
「違います……そのハンボン・エキスの嗅《くさ》い事というたなら鼻毛が立枯れする位で、それを工合良うビール瓶に詰めて、長崎の仏蘭西《フランス》人に売りますと、一本一万円ぐらいに売れますなあ。つまり世界第一等の色気の深い香水の材料《たね》になります訳で、今の林君の話のスカン何とかチュウ処の鯨よりも日本の鯨の新婚旅行の涎の方が何層倍、濃厚《みご》いそうで……」
「オイオイ仁三郎……ヨタもいい加減にしろ」
林技師がタマリかねて口を出した。
「ヨタでも座頭唄でもない。仏蘭西の香水は世界一じゃろうが」
「……そ……それはそうだが……」
「それ見なさい。それは秘密に鯨の涎をば使いよるげに世界一たい。自分の知らん事あ、何でも嘘言《ソラゴト》と思いなさんな」
「……フーム。何だか怪しいな」
「怪しいにも何も、私は、そのヨダレが欲しさに生命《いのち》がけでモートル船に乗って随《
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