《おっしゃ》るのですか。これは怪《け》しからん。通ったにも通らぬにも甲の上ダラケの優等生で……ヘエ。
 十五になって高等小学校を出ると直ぐに紺飛白《こんがすり》の筒ッポを着て、母様《かかさん》の臍繰《へそくり》をば仏壇の引出から掴み出いて、柳町へ走って行きましたが、可愛がられましたなあ。『小《ちん》か哥兄《あんちゃん》小《ちん》か哥兄《あんちゃん》』ち云うと息の止まる程、花魁に抱き締められましたなあ。ハハハ。帰りがけに真鍮の指環《いびがね》をば一個《ひとつ》花魁から貰いましたが、その嬉しさというものは生れて初めてで御座いました。日本一の色男になったつもりで家《うち》へ帰っても胸がドキドキして眼の中が熱《あっ》つうなります。そこで上り框《かまち》に腰をかけて懐中《ふっくら》からその貰うた指環をば出いて、掌《てのひら》の中央《まんなか》へ乗せて、タメツ、スガメツ引っくり返《かや》いておりますと、背後《うしろ》からヌキ足さし足、覗いて見た親父《おやじ》が、大きな拳骨で私の頭をゴツウ――ンと一つ啖《く》らわせました。その拍子に大切《だいじ》な指環がどこかへ飛んで行《い》てしまいました。
 私は土間へ引っくり返ってワンワン泣き出しました。何をいうにも今年十五の色男だすケに根っから他愛《どたま》がありませぬ。そこへ奥から母親《かかさん》が出て来まして、
『何事《なんごと》、泣きよるとナ』
 と心配して聞きましたから、
『指環《いびがね》の無《の》うなったあ。ウワア――』
 と一層、高音《たかね》を揚げて精一パいに泣出しますと、母親は私の坊主頭を撫でながら、
『ヨカヨカ。指環ぐらい其中《いんま》、買《こ》うちゃる』
 と慰めてくれました。私は腹立ち紛れに、
『アンタに買うてもろうたチャ詰まらん』
 と怒鳴ってメチャメチャに泣出しましたが、あん時はダイブ失恋しておりましたナア。

 鰒《ふく》も、ずいぶん喰いましたなあ。
 私の口から云うのも何で御座いますが、親父は市場でも相当顔の利いた禿頭《はげ》で御座いましただけに、その頃はまだ警察から禁《と》められておりましたフクを平気で自宅《うち》の副食物《ごさい》にしておりました。まあだ乳離れしたバッカリの私の口へ、雄精《しらこ》なぞを箸で挟んで入れてくれますので母親がビックリして、
『馬鹿な事ばしなさんな。年端《としは》も行かん児供《こども》が中毒《あた》って死んだならどうしなさるな』
 と押止めますと、親父は眼を剥《む》いて母親《はは》を怒鳴《がみ》付けたそうです。
『……甘いこと云うな。鰒《ふく》をば喰い能《き》らんような奴は、博多の町では育ち能らんぞ。今から慣らしておかにゃ、詰まらんぞ。中毒《あた》って死ぬなら今の中《うち》じゃないか』
 そげな調子で、いつから喰い初めたか判然《わか》りませんが、鰒《ふく》では随分、無茶をやりました。
 最初は一番毒の少ないカナトウ鰒をば喰いましたが、だんだん免疫《なれ》て来ますと虎鰒、北枕ナンチいうものを喰わんとフク喰うたような気持になりまっせん。北枕なぞを喰うた後で、外へ出て太陽光《ひなた》に当ると、眼が眩《も》うてフラフラと足が止まらぬ位シビレます。その気持の良《え》え事というものは……。
 それでもダンダンと毒に免疫《なれ》て来ると見えて、後日《しまい》には何とものうなって来ます。北枕を喰うた奴も一町内に三人や五人は居るような事でトント自慢になりまっせんケニ、一番恐ろしいナメラという奴を喰うてみました。
 ナメラというのは小さい鰒で、全身《ごたい》が真黒でヌラッとした見るからに気味《きび》の悪い恰好をしておりますが大抵の鰒好《ふくくい》が『鰒は洗いよう一つで中毒《あた》らん。しかしナメラだけはそう行かん』と申します。そうかと思うと沖から来る漁夫《りょうし》なぞは『甘い事云いなさんな。ナメラが最極上《いっち》利く』と云う者も居ります。
 そこで私共の放蕩《あくたれ》仲間が三四人申合わせてそのナメラを丸のままブツ切りにして味噌汁に打込んで一杯|飲《や》る事にしましたが、それでも最初はヤッパリ生命《いのち》が惜しいので、そのナメラの味噌汁をば浜外れの蒲鉾小舎《かまぼこごや》に寝ている非人に遣ってみました。
『ホラ……余り物《もん》ば遣るぞ』
 と云うて蒲鉾小舎の入口に乾《ほ》いて在る面桶《めんつう》に半分ばかり入れてやりましたので、非人はシキリに押頂いておりましたが、暫くしてから行ってみますと、喰うたと見えて面桶が無い。本人もまだ生きて煙草を吸うている様子です。そこで安心して皆で喰べましたが、美味《うも》う御座いましたなあ。ソレは……トテモ良《え》え気持に酒が廻わってしまいました。
 それから帰り途《しな》にその非人の処を通りかかりましたが、酔うたマギレの上機嫌で、
『最前の味噌チリ喰うたか』
 と尋ねてみますと老人《としより》の躄《いざり》の非人が入口に這い出して来てペコペコ拝み上げました。
『ヘイヘイ。ありがとう様で御座ります。アナタ方も召上りましたか』
 と爛《ただ》れた瞳《め》をショボショボさせました。
『ウン。喰うた。トテモ美味《うま》かったぞ』
 と正直に答えますと、暫く私どもの顔を見上げておりました非人は、先刻《さいぜん》、呉れてやった味噌チリの面桶《めんつう》を筵《むしろ》の蔭から取出しました。
『ヘイ。それなら私も頂戴《いただ》きまっしょう』
 とモウ一ペン面桶を拝み上げてツルツル喰い始めたのには驚きました。非人で試験《ため》してみるつもりが、正反対《ひっちゃらこっち》に非人から試験された訳で……。
 これはマア一つ話ですがそげな来歴《わけ》で、後日《しまい》にはそのナメラでも満足《たんのう》せんようになって、そのナメラの中でも一番、毒の強い赤肝を雁皮《がんぴ》のように薄く切ります。それから大きな褌盥《へこだらい》に極上井戸水《まつばらみず》を一パイ張りまして、その中でその赤肝の薄切《せんまいぎ》りを両手で丸めて揉みますと、盥一面に山のごと泡が浮きます。まるで洗濯石鹸《あらいしゃぼん》を揉むようで……その水を汲み換え汲み換え泡の影が無《の》うなるまで揉みました奴の三杯酢を肴《さかな》にして一杯飲もうモノナラその美味《うま》さというものは天上界だすなあ。喰い残りを掃溜へ捨てた奴を、鶏《とり》が拾いますとコロリコロリ死んでしまいますがなあ。
 ……ヘエ。私は四度死んで四度とも生き返りました。四度目にはもう絶望《つまらん》ちいうて棺桶へ入れられかけた事もあります。私の兄貴分の大惣《だいそう》ナンチいう奴は棺の中でお経を聞きながらビックリして、ウウ――ンと声を揚げて助かりました位で……イエイエ。作りごとじゃ御座いまっせん。この理窟ばっかりは大学の博士《はかせ》さんでもわからん。ヘエ。西洋の小説にもそのような話がある……墓の下から生上《いきあが》った……ヘエ。それは小説だっしょうが、これは小説と違います。正直正銘シラ真剣のお話で……。

 御承知か知りませんが、鰒に中毒《あた》ると何もかも痲痺《しびれ》てしもうて、一番しまい間際《がけ》に聴覚《みみ》だけが生き残ります。
 最初、唇《くち》の周囲《ぐるり》がムズ痒いような気持で、サテは少《ちっ》と中毒ったかナ……と思ううちに指の尖端《さき》から不自由になって来ます。立とうにも腰が抜けているし、物云おうにも声が出ん。その中《うち》に眼がボウ――ッとなって来て、これは大変《おおごと》が出来たと思うた時にはモウ横に寝ているやら、座っているやら自分でも判然《わから》んようになっております。ただ左右《りょうほう》の耳だけがハッキリ聞こえておりますので、それをタヨリに部屋の中の動静《ようす》を考えておりますところへ、聞慣れた近所の連中の声がガヤガヤと聞こえて来ます。気の早い連中で、モウ棺箱を担《いな》い込んで来ている模様です。
『馬鹿共が。又三人も死んでケツカル。ほかに喰う品物《もん》が無いじゃあるまいし』
『知らぬ菌蕈《なば》喰うて死んだ奴と鰒喰うて死んだ奴が一番、見《みっ》ともないナア』
『駐在所《ちゅうざい》にゃ届けといたか』
『ウン。警察では又かチウて笑いよった。いま警察から医師《いしゃ》が来て診察するち云いよった』
『診察するチウて脈の上った人間はドウなるもんかい』
『棺の中へ入れとけ。ドッチにしても形式《かた》ばっかりの診察じゃろうケニ』
『蓋だけせずに置けや。親兄弟が会いげに来るケニ……』
『親兄弟も喜ぼうバイ、此輩《こやつ》どもが死んだと聞いたならホッとしよろう』
『可哀相に……泣いてやる奴も居らんか……電信柱の蝉ばっかりか。ヤ……ドッコイショ……』
『重たいナア。死んだ奴は……』
『結構な死態《しによう》タイ。良《え》え了簡《きしょく》バイ。鰒に喰われよる夢でも見よろう』
『ハハハ。鰒の方が中毒《あた》ろうバイ』
『しかしこの死態《ざま》をば情婦《いろおなご》い見せたナラ、大概の奴が愛想《あいそ》尽かすばい。眼球《めんたま》をばデングリ返《がや》いて、鼻汁《はな》垂れカブって、涎流《よだく》っとる面相《つら》あドウかいナ』
『アハハハ。腐った鰒に似とる。因果|覿面《てきめん》バイ』
『オイオイ。ここは湊屋の仁三郎が長うなっとる。誰か両脚《あし》の方ば抱えやい』
『待て待て。その仁三郎は待て。今俺が胸の処《とこ》をば触《あた》って見たれあ、まだどことのう温《ぬく》い様《ごと》ある。まあだ生きとるかも知れん』
『ナニ。生きとるかも知れん。馬鹿|吐《こ》け。見てんやい。眼球ア白うなっとるし、睾丸《きんたま》も真黒う固まっとる。浅蜊《あさり》貝の腐ったゴト口開けとる奴《と》ばドウするケエ』
『まあまあ。そう云うな。一人息子じゃけに、念入れとこう』
 この時ぐらい親の恩を有難いと思うた事は御座いません。親というものが無かったならこの時に私は、ほかの連中と一所に棺箱《はこ》へ入れられて、それなりけりの千秋楽になっておりました訳で……。
『その通りその通り。助けてくれい助けてくれい』
 と呼ぼうにも叫ぼうにも声は出ず、手も合わせられませぬ。耳を澄まして運を天に任かせておるその恐ろしさ。エレベータの中で借金取りに出会うたようなもので……ヘエ……。
 それでもお蔭様で生き上《あが》りますと又、現金なもので、折角、思い知った親の恩も何も忘れて博奕は打つ……××はする……。

 ……ヘエ。その××ですか。これはどうも商売の奥の手で、この手を使わぬ奴は人気が立たず。魚類《さかな》が売れません。まあ云うてみればこの奥の手を持たん奴は魚売の仲間《かず》に這入らんようなもので……ヘヘヘ。
 その頃、私はまあだ問屋《とんや》の糶台《ばんだい》に座らせられません。禿頭《はげ》の親爺《おやじ》がピンピンして頑張っておりましたので……その親父《おやじ》が引いてくれた魚類《さかな》の荷籠《めご》に天秤棒《ぼおこ》を突込んで、母親《かかさん》が洗濯してくれた袢纏《はんてん》一枚、草鞋《わらじ》一足、赤褌《あかべこ》一本で、雨風を蹴破《けやぶ》ってワアッと飛出します。どこの町でも魚類売《さかなう》りは行商人《あきないにん》の花形役者《はながた》で……早乙女《あんにゃん》が採った早苗《なえ》のように頭の天頂《てっぺん》に手拭《てのごい》をチョット捲き付けて、
『ウワ――イ。ナマカイランソ(鰯の事)、ウワ――アアイイ……』
 と横筋違《よこすじかい》に往来《おおかん》ば突抜けて行きます。号外と同じ事で、この触声《おらびごえ》の調子一つで売れ工合が違いますし、情婦《おなご》の出来工合が違いますケニ一生懸命の死物狂いで青天井を向いて叫《おら》びます。そこが若い者のネウチで……。
 しかも呼込まれる先々が大抵レコが留守だすケニ間違いの起り放題で、又、間違うてやりますと片身《かたみ》の約束の鯖《さば》が一本で売れたりします。おかげでレコも帰って来てから美味《うま》いものが喰えるという一挙両得になるワケで……。
 それでも五六軒も大
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