少かったであろう。そうしてその死骸を平気で蹴飛ばして瞬《またたき》一つせずに立去り得る人間は殆んど居なかったであろう。奈良原到翁の風貌には、そうした冴え切った凄絶な性格が、ありのままに露出していた。微塵《みじん》でも正義に背《そむ》く奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人という感じに、一眼《ひとめ》で打たれてしまうのであった。
 この奈良原翁の徹底した正義観念と、その戦慄に価する実行力が、世人の嫌忌を買ったのではあるまいか。そうしてその刀折れ矢尽きて現社会から敗退して行った翁の末路を見てホッとした連中が「それ見ろ。いい気味だ」といったような意味から、卑怯な嘲罵を翁の生涯に対して送ったのではあるまいか。
 実際……筆者は物心付いてから今日まで、これほどの怖い、物すごい風采をした人物に出会った事がない。同時に又、如何なる意味に於ても、これ程に時代離れのした性格に接した事は、未だ曾《かつ》て一度もないのである。
 そうだ。奈良原翁は時代を間違えて生れた英傑の一人なのだ。翁にしてもし、元亀天正の昔に生を稟《う》けていたならば、たしかに天下を聳動《しょうどう》していたであろう。如何なる権威にも屈
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