この世に生き返ったらドウすればええのじゃ」
 度を失った医者はポケットから昨日の皺苦茶の一円札を出して三拝九拝した。
「……ど……どうぞ御勘弁を、息の根が止まります」
「馬鹿|奴《め》……その一円は昨日《きのう》の診察料じゃ。それを取返しに来るような奈良原到と思うか。見損なうにも程があるぞ」
「どうぞどうぞ。お助けお助け」
「助けてやる代りに今日の診察料を負けろ。そうして今一遍、よく診察し直せ。今度見損うたなら斬ってしまうぞ」
 因《ちなみ》にその診察の結果は全快、間違いなし。健康|申分《もうしぶん》なし。長生き疑いなしというものであった。

 大正元年頃であった。桂内閣の憲政擁護運動のために、北海道の山奥から引っぱり出された奈良原到翁は、上京すると直ぐに旧友頭山満翁を当時の寓居の霊南坂に訪れた。
 互いに死生を共にし合った往年の英傑児同志が、一方は天下の頭山翁となり、一方は名もなき草叢裡《そうそうり》の窮措大《きゅうそだい》翁となり果てたまま悠々|久濶《きゅうかつ》を叙《じょ》する。相共に憐れむ双鬟《そうかん》の霜といったような劇的シインが期待されていたが、実際は大違いであった。両翁が席を同じゅうして顔を見合せてみると、双方ともジロリと顔を見交してアゴを一つシャクリ上げた切り一言も言葉を交さなかった。知らぬ者が見たら、銀座裏でギャング同志がスレ違った程度の手軽い挨拶に過ぎなかったが、しかし、その内容は雲泥の違いで、両翁とも互いに、往年の死生を超越して気魄が、老いて益々|壮《さかん》なるものが在るのを一瞥の裡《うち》に看取し合って、意を強うし合っているらしい。その崇高とも、厳粛とも形容の出来ない気分が、席上に磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》して来たので皆思わず襟《えり》を正したという。
 それから入代《いりかわ》り立代り来る頭山翁の訪客を、奈良原翁はジロリジロリと見迎え、見送っていたが、やがて床の間に置いてある大きな硯石《すずりいし》に注目し、訪客の切れ目に初めて口を開いた。
「オイ。頭山。アレは何や」
 頭山翁は、その硯をかえりみて微笑した。
「ウム。あれは俺が字を書いてやる硯タイ」
 奈良原翁は、それから間もなく頭山翁に見送られて玄関を辞去したが、門前の広い通りを黙って二三町行くと、不意に立止って鴉《からす》の飛んで行く夕空を仰い
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