る奴が白い歯を剥《む》き出して冷笑しいしい、チラリチラリとワシの顔を振り返りおったのには顔負けがしたよ。そんな奴はイクラ助けても帰順する奴じゃないけに、総督府の費用を節約するために、ワシの一存で片端《かたっぱし》から斬り棄《すて》る事にしておった。今の日本人の先祖にしてはチッと立派過ぎはせんかのうハッハッハッハッ」
日本に帰って千代町の役場に奉職している時は毎月五円の月給(巡査の月給二円五十銭、警部が三円時代)を貰っていたが、その殆んど全部が酒代《さかて》になっていた事は云う迄もない。今は故人になった前の福岡市の名市長、佐藤平太郎氏は神戸署の一巡査の身で、外人の治外法権制度に憤慨し、神戸居留地域を離るる一間ばかりの処で、人力車夫に暴行して逃げて行く外人を斬って棄て、天下を騒がした豪傑であるが、氏は語る。
「巡査を罷《や》めて故郷に帰り、久し振りに昔の面小手《めんこて》友達の奈良原を千代町の寓居に訪うてみると、落ちぶれたにも落ちぶれないにも四畳半といえば、四畳半、三方の壁の破れから先は天下の千畳敷に続いている。その秣《まぐさ》を積んだような畳の中央に虱《しらみ》に埋まったまま悠々と一升徳利を傾けている奈良原を発見した時には、流石《さすが》の僕も胸が詰ったよ。僕も相当、落ちぶれたおぼえはあるが、奈良原の落ちぶれようには負けた。アンマリ穢《きたな》いので上りかねているのを無理に引っぱり上げた奈良原は大喜びだ。
『久し振りだ。丁度いいところだから一杯飲め。まずその肴《さかな》を抓《つま》め』という。見ると禿《は》げちょろけた椀の蓋に手前が川で掴んで来たらしい一|寸《すん》ぐらいの小蝦《こえび》が二匹乗っかっている。『遠慮なく喰え』という志は有難いが、それを肴に奈良原が一升の酒を飲むのかと思うと涙がこぼれた。一匹の小蝦が咽喉《のど》を通らないのを無理に冷酒《ひやざけ》で流し込んで『これが土産だ』と云ってその時の僕の全財産、二十銭を置いて来た」云々。
そうした貧乏のさなかに大変な事が起った。奈良原翁が病気になったのだ。
何だか酒が美味《おいし》くない。飯が砂を噛むようで、頭がフラフラして死にそうな気がするので、千代町役場からその月の俸給を一円借りて近所の医者の処へ行った。一円出して診察を請うて薬を貰ったが、
「どうです。助かりますか」
と問うてみると若い医者が首をひね
前へ
次へ
全90ページ中46ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング